私の浪人時代(12)

 東大や教育大のような難関大学の入試が行われないとなると、当然そのレベルの受験生は別の大学を受験するから、コトは2大学の問題ではなく、玉突きのように多くの大学の合格レベルがあがることになる。模試の合格可能性も前年度のデータが基準だから、今年度はそのまま通用しないことになる。
 
 要するに受験界は混乱した。だからといって、私の生活に大きな変化があるわけではなかった。予備校とバイトと部屋で机にかじりつく日々があるだけだった。模試で合格可能性があるといっても、やるべき課題いくらでもあるように思われた。2年も受験生をしていると自分に欠けていることもはっきりわかってくる。時間がありさえすれば、一つ一つ退屈な課題をたんねんにこなせばできないことはない、と頭では思っていても実際には考えたことの半分もできなかった。
 
 その事実がさらに焦燥感をあおった。到達できない目的地を設定して自分を鞭打っているが疲労がつのるだけでますます目的地は遠くなっていくようだった。この心理的設定はその後の人生にも長く尾を引いたように思う。こなさなければいけない課題がいつもあり、それはどんなに努力しても達成できない。なんとかその場をやりくりしてしのいでいるが満足な結果が出せることはなく、常に不全感を抱えている。その後私は教員になったが、やはりこの設定に追われ続けているように思う。浪人は「若いときの経験」では終わらなかったのである。
 
 体調はいつも悪かった。私の場合は消化器系統が不調だった。便秘と下痢が周期的にやってきた。いつもあたりが重苦しく濃い霧の中をよろよろ歩いているような気分だった。さいわい眠れないのは週に1、2度ぐらいでそれでなんとか日常生活をおくっていた。
 
 夏に住み着いた黒猫の「弥生」は冬になって部屋に居つくようになった。福寿荘では猫を飼うことは禁止されていた。まだ外が暖かいうちは餌だけあげて、なるべく部屋の中に入れなかったが、寒くなってくると弥生は当然のように部屋に入ってきた。寂しい私はこの猫を追い出すことができなかった。管理人は気のいいおばさんだったが、動物が嫌いでそのことに関しては人が変わったように口やかましかった。私は内心ビクビクしながら、弥生を抱いて寝た。
 
 年も明けて2月になると弥生の体がおかしくなった。あまり動かなくなって妙に甘い声でゴロゴロのどを鳴らした。そのうち明らかにおなかが大きく膨らんできて横たわっていることが多くなった。夜中に荒い息をしてうめいていることもあった。妊娠したのである。まずいことになった、と私は思った。ある朝目覚めたら布団の中で生まれたての子猫がみゅうみゅう鳴いていたらどうしようと思った。どう処理していいかわからず時間ばかりが経っていった。そのうち腹はますます大きくなり夜中にうめくことも多くなって、出産が近いの間違いないと思われた。受験も間近の3月になろうとしていた。
 
 1996.12

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 あとがき:猫もので真っ先に思い出すのは大島弓子の「綿の国星」である。作者の大島弓子先生は近所に住んでいる。ただ見かけたことはない。あるいはわからぬように変装して外出されているのかも知れない。「綿の国星」が 白泉社のLaLaララに連載されているときに妻と知り合った。チビねこが吉祥寺のパチンコ屋に入り込んじゃうエピソードがあったと記憶する。チビねこはそこをペルシャと思ってしまう。それを読んで結婚する前の妻は「すごい!すごい!」とコーフンしていた。なんだかそれはいい感じだった。大島弓子の作品は確かにすごい。発想、テーマとあの絵の組み合わせが絶妙である。見開き1ページ白抜きでふわふわ雪が降っているだけ、なんてことを平気でする。最近はあまり作品を発表されていないようだ。私と同世代のはずである。しぶいむかし話でも描いていただきたい。 (2000.11.25)
 このあとがきは2000.11に書いた。wikpedeiaによれば大島弓子は2001年に吉祥寺のマンションから引っ越して猫屋敷と化す一軒家に移る。「グーグーだって猫である」にはその当時のことが描いてある。「しぶいむかし話」ではなく、愛猫たちとの日常を描いたエッセイまんがだが、これがやはりすばらしい。