私の浪人時代(15)

 4月に入ってしばらくは毎朝、ため息をつきながら新聞の求人欄を見て過ごした。ともかく何かバイトを捜さなければならない。新宿の京王デパーで ビル清掃の求人があった。他に思いつかなかった。履歴書を書き現在の記入欄は浪人中とした。仕方ない、もう1年やってみるか、しぶしぶそう思った。ビル掃除は経験者なので、すぐに採用になった。英進予備校の地下の自習室で女子学生が「何考えてるんだかわからない」と話していた3浪になってしまったわけである。
 
 仕事は5時半頃出勤して閉店後のデパ-ト内を清掃する。休日はポリシャーを使い石鹸液で床を磨くが、平日は自在箒で掃くだけである。9時過ぎに終わり10時頃帰宅すると、残り物を食べ床に入って日記をつけ大学受験講座を聴いたり本を読んだり深夜放送を聞いたりして寝るのは明け方5時頃になった。
 
 翌日起きるのは12時前である。その後図書館に行った。今は飛鳥高校になった旧北高前の北区図書館王子分室である。問題集やテキストを持っては行くがたいていは雑誌を読んでいた。週刊誌や文芸誌である。1時間も受験勉強できればいい方で4時を過ぎれば仕事へ行った。
 
 高校時代の同級生Aは推薦で和光大学芸術学部に入学した。和光大学は当時できたばかりで自由な校風を標榜していた。入試も自己推薦があり自分の作品を持って来い、という出題に「おらの作品だ」と大根を提出した農家の息子が合格した、などのエピソードを聞いた。
 
 普通は現役にしか認めていない推薦入学を浪人生にも開放した。Aはそれに応募したのであった。彼にしても2年間の予備校生活は、合格の観点からすれば無意味であった。だが彼はすでに大学生であり、新しい生活が待っていた。そんなわけで彼とも自然と疎遠になった。
 
 今でこそフリーターなどという所属不明者の言葉があるが、当時はそんなものはなくどこかに所属していないのは不安だった。以前の知り合いに会って「何してる」と聞かれると口ごもった。(とりあえず浪人)という言葉を飲み込んでしまう。ますます人を避けるようになった。
 
 通信添削だけは続けていた。10日ごとに送られてくる問題を解いて投函する。しばらくして結果がくるとグラフにつけて合格可能性を確かめた。以前は判定が良いと喜んだがこれがあまりあてにならないのは過去3回の受験でわかっていた。それでも他に頼るものがないから結果がでるたびに一喜一憂した。
 
 相変わらず進路は定まっていなかった。3浪もしているから東大にでも入らなければ格好が悪い、と心の片隅で思ってみるが現実を確認するとそれは遥か彼方にあるようだった。「浪灰徒-重い空、暗い心」というのが当時の日記のタイトルである。体調はますます悪く来る日も来る日も仕方なくのろのろ動いていたような気がする。こんな風に私の浪人生活3年目は始まった。 
 
 97.2.4

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 あとがき:捨てる神拾う神あり世の中は

 前回は抗議メールで落ち込んでいた。10人の読者さんから励ましのメールをいただいた。海外(!)からも3通。有難い限りである。メールマガジン発行者としての経験を述べてくれた方もいた。いくつか自分が気づかなかったことわかった。やはり人の意見を聞くことは大切である。もともと自伝シリーズは、面識のある人に名刺代わりにお渡しする、という設定で始まったものである。このシリーズ以前にメール等で知っていて、この人に読んで欲しい、という方にご案内差し上げた。「引きこもりの受験生向き」などと紹介文を書いたが、もう少し大人の人向きなのかも知れない、とも思った。(2000.12.16)