私の浪人時代(16)

 どこに行っても人間がいる。私は人を避けて暮らしたかったが、仕方なくやっている清掃のアルバイトにも人間関係があった。一緒に働いているのは私と同年代の学生3人、それにおばさんが2人だった。仕事中は担当した場所を黙々とやっていればそれで済むが、休憩時間や帰りに駅で別れるまでは話をしなければならなかった。
 
 おばさん達とはあいさつ程度でよかったが、学生たちとはそうはいかない。3人とも大学生だった。島根県から出てきた國學院大學1年生、東京出身の国士舘大学1年生、埼玉にすむ早稲田大学2年生、彼だけが1浪だった。
 
 私が3年浪人をしていることを言うと(こういう時、私はその場限りの嘘がつけなかった)國學院のDは「大変だなあ」と明るく言った。根は純朴な男だが1人で下宿していて、都会に出てどう生活していいかわからないように見えた。誘われるまま学生運動のシンパになり、どうしたらうまく抜けられるかと苦心していた。
 
 ある時バイト先に紙袋に入ったそのセクトのヘルメットを持ってきた。それを「処分してくれ」と頼むのである。私が困っていると「そうだよな、まずいよな」と独り言を言い、また袋に納めて抱えて帰っていった。始めの頃はタバコはショートホープに限る、と言って開ける時に、ここがいいんだ、と赤い帯を残したまま爪でセロファンを切っていた。そうするとそのセクトのヘルメットのようになる。そのセクトのメットは白地に赤い帯が描いてあり、例の学生運動文字でセクト名が書かれていた。
 
 そのショートホ-プ箱を見ながらまんざらでもなさそうだったが、新宿西口広場にも制服警官が立つようになると、彼は学生運動にこれ以上深入りするのはまずい、と思い始めたようだった。ニキビ面の素朴な風貌で、笑うと並びのよい白い歯が光った。
 
 国士舘のKは「東大でもねらってるの、すごいじゃん」と軽口をたたいた。私は自分が見透かされたような気がして、黙っていると「ま、がんばって下さい」とそれ以上追求しなかった。おしゃれな男でべっちんのラッパズボンに先のとがった靴を履き、鳥のような顔をしていた。遊び人風に見せているがその実それほどでもない、とわかった頃「国士舘ってすごいんだろう」と聞くと「世間一般でいうような怖いところでなく普通の大学だ」と言った後で「でも真面目ぶってると、なめられるからな」とつけ加えた。彼なりに苦労があるんだな、と思った。
 
 早稲田のWは口数の少ない学究肌の真面目な男で信頼がおけた。私の3浪に関してもしばらく黙った後で「おれも1浪したから」とボソボソ言った。法学部に通っているともつけ加えた。年は彼が1つ上だが学年は同じで私は勝手に親近感を感じていた。
 
 3人3様で観察の対象としては面白いがいずれも大学生で浪人中の私とは話が合わない。私は口数少なく一歩引き下がって3人についていた。
 
  97.2.22

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 あとがき:私が通ったこのデパートの向かいにスバルビルがある。その最上部に21世紀までの日数が電光掲示されている。先日見たら、あと13日になっていた。1969年当時は新宿西口の開発が始まった頃で、京王ホテルが高層ビルとしては1番目だった。それも建設中でまだ完成していない。それからほぼ20年、新宿西口のビル建設は1991年の新都庁で一段落つくことになる。これらのビルの最上階から地上を見ると人間は蟻のように小さな動く粒である。30年前も今も私は蟻のようにこの地上にへばりついてうろつきまわるだけである。(2000.12.23)