私の大学時代(9)

 母が死んだのは父の亡くなった3月ほど後だった。母は私が小学校3年生の時、私が出演した学芸会の劇を見るために外出して以来、家から出なかた。だから晩年12年ほどは寝たきりで過ごしたことになる。

 診断名は更年期障害というものだった。コウネンキショウガイ、小学生の私にその意味はよくわからなかった。ともかく具合が悪くて寝ている、と思っていた。入院した父の病院にも見舞いに行けなかった。

 身の回りの世話は姉がやっていた。アパート福寿荘に風呂はなかったので姉が時々体を拭いたり髪を洗ったりしていた。昼食は栄養を考えて、しらや野菜を細かくして混ぜたおにぎりを枕元に置いて勤めに出ていた。

 コップに水を入れていくつも並べてあった。母はそのコップからほんの一口一口水を飲むのだった。枕元のラジオが母のただ一つの気晴らしで、山谷新平の人生相談とか子ども電話相談室とかを良く鳴らしていた。

 私は現場のバイト中心の生活でときたま大学に顔を出していた。王子から田端、池袋、新宿、渋谷と国鉄に乗り東急東横線都立大学駅まで通学した。学割の定期は買ったがそれはバイトに行くために使うことの方が多かった。

 相変わらず毎日を暗い気持ちで過ごしていた。何か大事件が起こってこの生活がすべて変わってしまうといい、もうどうなってもかまわない、と内心秘かに思っていたが、その半面バイトは遅刻もせず几帳面にこなしていた。

 1972年1月17日、夕方大学から重い足取りで福寿荘に帰り母の部屋を開けると異変が起きていた。

 その北向きの寒い部屋は冬の夕方の短い時間だけ西日が薄く射し込んだ。その中でラジオが大きな音を出していた。母が布団の上に座ったまま体を前に倒してつっぷしていた。枕元ににぎりめしがころがっていた。そして妙に静かだった。私はドアを閉め、廊下でドキドキしながら立っていた。それからドアを開けまた閉めた。

 まず、姉に電話しよう、そう思った。姉の会社の電話番号を探して姉の部屋から電話した。「お母さんが死んでるんだけど」私は冷静にそういったつもりだった。姉は何を言われたのかわからないらしかった。何度か聞き返され、そのうち「ともかく帰る」と電話は切れた。

 それから母の薬を出している真柴産婦人科に電話した。「母が死んだようなので来てください」と用件を言うと、医者は「ともかく往診に行きます」と言った。

 それからしばらく姉の部屋で座って待っていた。隣の部屋で母が起きあがりそうな感じがした。そしてまたラジオの音が聞こえてきた。それまでずっとラジオは鳴っていたのだが、私には聞こえなていなかったようなのだ。死んだ母がまた起きあがるような感じはずっと続いていた。

 姉が帰って来て医者が来て、母が死んでいることを確認した。姉は母を仰向けに寝かして布団を掛け、顔には白い布をかぶせた。それから互助会の葬儀屋に電話した。

 母は晩年人つきあいがまったくなかったので、福寿荘で葬式をすることにした。母の寝ていた部屋に祭壇を作り棺桶を入れまたたく間に葬式ができるようにしてしまった。さすがはプロ、手際あざやかであった。医者は一度戻って死亡診断書を書いて持ってきた。これがないと葬式ができない。

 何人かの親戚がやって来た。昨年の秋に顔を合わして年が明けてすぐにまた話をすることになった。福寿荘は4畳半の部屋しかなかったので、狭い中であいさつもそこそこに親戚が額をつき合わせるようにしてうなだれていた。

99.10.8

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 あとがき:小学生の時、死ぬことを考えた。この母が悲しむことは確かだと思われたので、死ぬのはよそうと思った。今朝、隣の部屋で娘が騒いでいた。始めふざけているのかと思った。「うえーん、うえーん」と娘は声を上げていた。どうも泣いているらしい。なかなか止まないので、声をかけた。「なに騒いでんだよ」「ぱーこが死んだ。うえーん」「生きてるよ」「あー、疲れた」と娘は言ってまだ少し泣いていた。

 私が死ぬ夢をみていたらしい。下に降りてきて妻に言うと「そりゃ、疲れるわ」と言った。逆夢でいいことがあるんじゃない、と続けた。娘が降りてきて、どんな夢か報告した。なかなかリアリティのある夢だった。娘がこう泣くとなるとまだ死ぬわけにはいかないな、と私は思った。( 2001.12.2)