私の大学時代(21)

 1973年の日記の引用をもう少し続ける。

  2時から5時までヒマになった。都立大学駅周辺をウロついた。はじめて歩く道が多かった。民族品を扱っている民家があった。1時間少し歩き回っていると、クタクタになった。ラーメンを食べた。ここの女の子はちょっとよかった。TVに安西マリアが出ていた。愛のビーナスを歌った。古本屋を見つけた。その後で「目黒」の図書館へ行った。群像などを少し読んだが最低だった。頭がぼ-となって何が何だかわからなくなっている。こういうことは時々ある。絶望しているのだ。外を「J」が通った。M君がブラブラ入って来て何か雑誌を取って座った。

  生物の実験は結果が出るまて待たなければならないものがある。その空き時間をつぶすのに苦労した。「目黒」というのは教養学部がある目黒校舎で理学部がある深沢校舎から歩いて10分ほどだった。JやMは大学紛争の頃にデモの中で見かけた顔である。彼らは私と同様、大学に居残って卒業しようと思っていたようだ。お互い気まずいので挨拶もしなかった。「絶望」というのは大げさな表現で、目の前の課題をわけがわからずこなしていて疲れがたまった、という程度のことだろう。
                    
   実習は7時頃までした。雨月物語は今日6時間目のはずだが出る気がしなかった。A子にも会うのがめんどくさい。オヤジさんから電話が来た。明日出て、あさって休む。そう伝えた。来週の予定は?」「月曜は病院へ行って火曜は出ます」「そうか」当然不満そうだった。裕子から電話があった。「昨日親戚の家に行ったんだって」「そうなの。今帰ってきた」最近は学校へ行っている、と言っていた。「愛子さんと会った?」「10日、あ、11日も会った、、云々」そういうことを話しているとき、訴えるみたいにワメクのはなぜだ。

 この日は実習の後、講義をさぼった。私は秘かに作家になりたいと思っていたので、理系の学生がまったく受講しない国文学の講義を登録した。「雨月物語」も初めはおもしろかったがったが、文法事項の分析的な講義になってくると興味がわかなかなくなった。この後ずっとさぼって単位は取れなかった。オヤジさんというのはバイト時代に書いた職人の親方である。私は仕事が出来るようになってきたから、オヤジさんから当てにされていた。へルニアが痛むのと一応大学を卒業しておくかと思っていた頃だったから、バイトを断っていた。

 愛子は生物学科のB類(夜間)の学生。私が落第したので、講義が一緒になった。裕子は愛子の友人で横浜市立大学の学生だった。横浜のデパ-トの地下一階で売り子をしている、というので見に行ったことがある。いずれも大字には籍を置いているが、勉強の方は単何が取れればいい、という程度である。私の方は例によって2人とも好ましく思っていたが、彼女たちからすれば私は変な知人という感じだったと思う。

2000.12.24

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 あとがき:この裕子と1度だけデートしたことがある。デートといっても、黄金町で待ち合わせて、ロックをかける店に入ってコーヒーを飲んだだけである。彼女は闇市(ブラック・マーケット)という同人誌の同人だった。70年以降を戦後に見立てたネーミングだと思った。彼女は詩を載せていた。何か書かないか、と言われた。人様に見せるようなものは何も書けないと思っていたので、そうだなあ、とかあいまいな返事をした。

 確か2月で日差しの暖かい日だった。彼女はジーンズ(エドウィンベルボトム)に黄色いセーターを来ていた。私は長袖のシャツだった。夕方になってくると寒くなった。私が震えていると、その黄色いセーターを貸してくれた。私は大丈夫、と彼女は言った。

 私はそれを羽織るようにして駅まで行った。彼女は横浜方面に、私は品川方面に帰る。彼女の乗る電車が先に来て見送る形になった。セーターを返した。受け取った彼女はそれを胸の前で大切なものを抱えるようにして両腕で抱きしめた。えっ、と息を飲んだ。信じられない思いだった。ほんの少し向き合って発車までの時間をじっと待った。発車のドアが閉まる。彼女はセ-ターを抱えたまま少し微笑んで会釈した。私は自分の胸の前で小さく手を振った。

 今になって思い返してみれば彼女は私を嫌っていなかったのかも知れない。当時の私は自分の想いでいっぱいで相手が何を考えているのか、まったくわかっていなかった。彼女とはそれから1度も会っていない。

 何年か後で、愛子から彼女が結婚したことを聞かされた。昔の知り合いのうわさ話といった軽い話題だった。相手は全く知らない男らしかった。なんでもない話でそのまま別の話題にうつったが、私の中では小さな失望が小さいまま消えずに波打っていた。同時に、なんの権利もないのに・・・そんな言葉が脈絡もなく浮かんだ。裕子は富田靖子に似ていた。(2002.2.23)