私の大学時代(17)

 予想通りの質問で一安心すると、不得意なことは何か?と聞かれた。意地の悪い質問である。得意なことを聞かれたのなら返事のしようがあるが、出来ないことを答えるのである。私は、注意するのが苦手です、と答えた。

 すると右はじにいた年輩の男のめがねがキラリと光った。「生徒を理解することと甘やかすことは違います」と言った。偉そうなヤツだ、と思ったが「はい」と答えた。次の質問は何故留年したか、だった。これは準備していた通り、同情を買う苦学生路線で答えた。

 するとまた、右はじのメガネがキラリと光った。「君は苦労したようだけど、苦労に負けてはいけない」おれは面接を受けに来ているので説教されに来たのではない。あんたに何がわかる!とあやうく言いそうになった。うつむいてうなずいた振りをした。

 今まで黙っていた左はじが他の2人に「もうよろしいですか」と聞いた。するとこいつが一番えらいのか。2人が黙ってうなずくと、それで面接は終わりになった。こんなやつらの言うことを聞かなくてはならないのか、もう教員なんてどうでもいい、と一瞬思った。

 採用試験は合格だった。年明けの1月に小笠原高校の教頭の自宅に4月から赴任する教員が集められ、簡単な説明を聞いた。島の異動は早い。普通は1月末頃に決まる。それよりほぼ一月早いのである。

 先の話になるが、小笠原から異動して定時制高校に移ったときも12月には内定していた。そこから新設の単位制である今の勤務校に移るときも、前年の7月に打診があり、12月末には内定していた。だから私は一般の異動を経験したことがない。

 そんな風に就職は決まった。初めての就職には自分でも力をいれた。小笠原高校の校長に会ったのは9月だった。その時研究室の先輩から助言を受けた。生物教育研究会という教員の団体がある。そこの会長が生物教員の人事を握っているから挨拶に行った方がいい、とのことだった。採用試験を受験する前である。

 全然面識もない。いきなり訪ねて大丈夫かと臆する気持ちもあったが、ここで就職を決めたいというせっぱ詰まった焦燥感が勝った。何か手みやげを持っていった方がいいだろう、と考えた。山本山の海苔の箱詰めを買って持参した。姉に聞いたらそういうものがいいと言うのである。

 当時の会長はT高校にいた。直接電話して、生物の教職を希望しているが、校長先生にお会いしたい、と伝えた。ともかく来て下さい、という返事だった。通されたのは生物室で、そこの生物の教員が相手をしてくれた。

 生物の実験用具を見せてくれた。まあ頑張って下さいと30分ほどで帰された。私は校長に渡そうと海苔の箱を抱えていた。渡す相手も時期も出てこない。仕方がないので、その箱を教卓の上に置いた。その教員は怪訝そうな顔をしていた。私はそのまま、ありがとうございました、と生物室を後にした。

  なんだか私の思惑と違つていた。結局校長には会えなかった。今から思えば、まったく採用には関係のないことをしているのがよく分かる。昨年は私の所属校の校長がその筋の会長だった。

 私のところへ海苔の箱を持った学生がいきなり来ても、とまどうばかりだろう。もちろん、採用とは全然無関係である。知らないということは恐ろしいことだ。まったく赤面ものである。

  初めての求職活動にともかく私は必死だったのだ。小笠原行きが決まった後になって、3月の末に羽田近くの高校の定時制からも電話で直接打診があった。急に欠員が出たという。都内に就職できるならその方がいい、と思ったが約束してる小笠原を蹴るわけに行かない。もう、決まっています、というと、電話はあっさり切れた。

2000.7.18

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 あとがき:人事は微妙な世界である。能力才能があっても適材適所というわけにはいかない。どんなに努力してもだめなこともあれば、何もしないですんなり決まることもある。結局は「運」がものをいうのか、と思わざるを得ない場合が多い。ただ「運」を呼び込む生活態度というのはあるように思う。
 学生時代に見知った人の10年、20年後の「人事」を見ていると、それなりのところに収まっているとの感じも強い。何がそうしているのかよくわからないが、采配の妙を実感する。就職も人事なら、入学、結婚も人事であろう。それを決めるのはめぐり合わせだが、それをどう生かすかはその人である。世の中を遠くに感じている私に人事上の不満は特にない。(2002.1.26)