私の大学時代(13)

 そんな風にバイトを現場の仕事から家庭教師関係に変えて大学に通った。生物学科は理系だから午後はほとんど実験だった。出席してレポートを出さないと成績がつかない。成績がつかないと単位が出ない。いつまでたっても卒業できない。

 学生運動に少し顔を出してその後は工事現場回りばかりしていた私は1年落第し大学生活も5年目に入っていた。卒業すると生物学科の半分ぐらいは大学院に進む。そのためには自分の研究のテーマを決めて、指導教授を選び大学院の試験を受けなければならない。大学院を出ると研究職か大学の先生になる。掲示板の求人情報を見ると、大学の教員は公募にはなっているが、実際は指導教官のコネクションで就職が決まっているようだった。

 そばで大学院生の生活を見ているとそれぞれ自分のテーマにそって自分で計画を立てて実験していた。相手が生物なので、相手の都合に合わせないと仕事ができない。大学に泊まり込んでの研究もある。私のように生活費を稼ぎながらでは、とてもできない。大学院はあきらめた。

 大学院に進学しない者は、民間の企業に勤めるか、教師になっていた。現在、生物学は理学部の中で脚光を浴びているが、当時は地味だった。だから入試の偏差値も低く、それで私は3浪の後受験したのであった。

 企業はすでに新規採用の年齢をすぎていた。残るは教職である。私は教師は偉い仕事だと思っていた。なんでも出来なければいけない。教師は3者という。学者、医者、易者のことらしい。教科内容では学者のように何でも知っていなければならず、生徒指導では医者で、進路指導では易者である。

 私はこれに芸者も加えたい。授業はエンターティメントとしても一流でないといけない。さらに人格的には聖者である。人付き合いも悪く女性コンプレックスで神経症気味の私に勤まるわけがない、と思っていた。

 ところが、家庭教師をして見ると、それほど評判は悪くなかった。私は自分一人で受験勉強をしていた時期が長い。結果から見ると無駄なことでも色々試行錯誤して回り道をしてきた。それが良かったらしい。勉強がわからないのは、その手続きがわからないことが多い。そのわからなさを多くの教師はわかっていない。

 教師にとっては当然のことが、生徒にとっては当たり前のことではない。その間に道を通してやるのが教師の仕事である。物理を教えた進学校の高校2年生は、いったんやり方がわかると後は自分でどんどんやっていった。私はこの「やり方がわからない」に関しては自分でもずいぶん苦しんだので、その経験が役に立った。

 家庭教師から入ったのも良かった。相手がわからないのが、よくわかるからである。集団を相手にすれば、当然わかる人間とわからない人間がいる。こちらにしたら、わかる人間のことはよくわかる。だからそこを基準に進めて行きがちになる。個人を相手にしているとそうはいかない。私は自分の弱点がここで生きると思った。

 小学校4年生の女の子の場合、問題はやる気であった。これは正面攻撃では片づかない。やる気を出すのは本人であるが、本人にもどうして良いのかわからないのだ。自分でそう思っていても、自分の思い通りならないことが自分のことである場合、事態はややこしくなる。これは心理学の扱う問題である。

 やる気を「出させる」のは、「やる気」を出す条件を整のえることが必要である。また、やる気のある人が「やる気」を出させようと思っていろいろやると、大抵事態は悪くなる。これは側面攻撃で攻めるしかない。などと、今ならそれなりのことを考えられるが、当時の結論は簡単であった。やる気のない場合は、相手にしなければいい、というものである。

2000.4.7

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 あとがき:「やる気にさせます!」というのは某家庭教師塾のキャッチコピーである。私はこの塾の先生が請け負ってあえなく敗退したところで、2年間続けたこともある。ちょっと自慢したい気もする。もっともそれは勉強というよりも、いかに時間をつぶすかということに意味があった。ある人の紹介で通う事になった。

 始めて行くと相手の生徒さんはいなかった。2回目もいなかった。3回目に初めてお目にかかることが出来た。そうして、成績がそれほど良くならないのに、ペイはどんどん上がっていく。何か裏があるかもしれない、とさすがにビビった。

 某大企業の偉い方のお宅であった。金に不自由しないとはいえ、私のようなビンボー人にはうかがい知れない謎である。2年ほどして、相手が家出して、やめることになる。先方は私をキープしておきたかったらしい。忙しいから、と理由をつけて終わりにした。正体不明の金はどこか怖い。(2001.12.29)