私の大学時代(7)

 成績のことを書いたらもう大学時代が終わった気分になってしまった。以下、時間にそっていくことはやめて、思いつくエピソードを述べてみたい。
 
 大学時代に両親が亡くなった。授業に出ることをやめて、バイトばかりしていた時期に家を出た。家といっても4畳半の部屋を家族で4部屋借りて住んでいたから家族と一緒に暮らすのをやめた、といったところである。
 
 入学して1年目の11月に品川区の鮫洲にあった大学の寮に入った。寮費は月額200円だった。これに光熱費と食費を合わせて一月5000円もあれば生活できた。まったく夢のような話である。  
 
 私は東京に住んでいたが、住宅に困窮していると申請すると許可された。特に面接などはなかったように思う。学生課に書類を出しただけである引っ越し荷物はタクシーで運んだ。せんべい布団と学用品が少しだけの引っ越しだった。
 
 ここに翌年の3月まで5ヶ月いた。仕事をバイト時代に述べた工事現場のコーキング工事に変えたのとはぼ同時に、友人Aの家に下宿した。彼は私と高校時代同級だった。2浪して和光大学の芸術学科に入った。私は自分が入学した都立大学に行かなかった代わりに和光大学には良く通った。Aを通して和光大学の何人かとは知り合いになった。
 
 そんな関係でかれのところに転がり込んだのだった。食費込みで月2万円ほど納めたと思う。なかなか快適な生活だった。私の住宅事情に述べたとおりである。
 
 大学2年目の夏の終わり頃、王子福寿荘から連絡があった。父が入院したというのである。肝臓を悪くしているということだった。
 
 晩年父は小さな電気会社につとめていた。富士電気設備工業株式会社という。富士電気というと大メーカーであったが、無関係だと思う。朝早く起きてご飯を炊き塩分の濃いみそ汁を作って勤めに出ていた。楽しみといえば会社の帰りに寄るパチンコで煙草を取っていた。
 
 煙草はしんせいで両切りの安い強いものである。玉が出たときはおみやげにチョコレートを持ってきたりした。そのころ会社の仕事机にはワンカップが入っていたというから昼間でも酒を飲んでいたのかも知れない。酒は弱い方だった。酔うとごろりと横になりすぐに寝てしまった。
 
 病院に行くとすでに話が出来ない状態だった。ただ見れば分かるらしく私を見て、ガーガーとけもののような声を出した。肝臓の機能が弱って体に水が溜まっていた。父の手を握ると柔らかく膨らんで熱く脈打っていた。もう永くない、というので私は福寿荘に呼び戻されたのであった。
 
 父の死んだのは1971年の10月8日でこの日は3年前に新宿騒乱事件のあったときである。集会とデモが予定されていたが、私は参加する気はなかった。
 
 滝野川病院の狭い個室に家族が集まった。死亡時刻は夕方の6時27分だった。容態が急に悪くなって、廊下で叔父が医者に「できることはなんでもしてください」と頼んでいた。私は妙に冷たかった。どうせ死んでしまうのだから無駄なことではないだろうか、と内心思っていた。
 
 それを口に出すのはためらわれたから黙っていた。なんだかそういうことを他人の医者に頼むのは恥ずかしいことのようにも思った。私は枕元の椅子に座って父の頭を見ていた。
 
 父の顔は息を吐くと横になり吸うと上を向いた。その繰り返しがだんだんとゆっくりになっていった。この動きが止まった時が死ぬときだ、と思ってじっと見ていた。もう顔が上がらないのではないか、と思うとまたゆっくり頭が動くのだった。
 
 そうして遂に父の頭は上がらなくなった。ベッドの足下にいた医者が「ご臨終です」と言って腕時計を見た。

 99.9.11

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 あとがき:この自伝シリーズは学級通信に掲載していた。学級通信を発行している担任は何人かいた。そして互いに交換したりしていた。家庭科の先生とも交換していて、その先生から、家庭科の研究誌に何か書かないかと打診を受けた。それが「私の住宅事情」である。調理室の廊下に拡大コピーし張り出した。家庭科の先生は私の貧乏話を教材にしていた。日本の生活はこのように変わってきた、という話の材料にしたのである。世の中はリンクで成り立っているんだなあ、と思った。(2001.11.17)