私の大学時代(6)

 そして残りの専門課程も3年かかったから結局6年かけて卒業したことになる。これに浪人3年が加わるから人より5年遅くなり卒業したときは27歳になっていた。
 
 まともな民間の就職は無理である。バイトに明け暮れて、ひそかに作家になりたいなどと思っていた。文芸誌の新人賞などは図書館で選者の評を読んで「傾向と対策」をたてたりした。そのくせ作品とよべるものは一つもできなかった。
 
 書いたのは日記でほぼ一月1冊大学ノートが埋まった。60冊近くの日記帳がいまも段ボール箱に入っている。このシリーズを書くとき読み返そうと思って少し手をつけてみたがあまりの恥ずかしさにやめてしまった。だからこれは記憶で書いている。 
 
 良く昔の事を覚えてるな、と言われるが、大学時代はおおむねこの日記を読み返して暮らしていたので、その当時のことが記憶に残っているだけである。私の記憶力が優れているのではない。
 
 人とつきあうのが嫌でなるべく一人の仕事がしたかったから、漠然と作家、などと思っていたが、具体的には何も進まなかった。そのうち、椎間板ヘルニアがひどくなったこともあって現場の仕事をやめ、ともかく大学を卒業しようと思った。
 
 いよいよ卒業の目途がついた6年目になって、教員にでもなるかと思った。受験資格は30歳ぐらいまでで充分間に合った。夏休みもあり、先生をやっている、といえばそれほど聞こえの悪い仕事ではない。
 
 入学した頃は自分のような人間は教師になれないだろうし、なってはいけない、と思っていた。教師というのはもっと立派な人がなるべきで自分はその範疇に入っていなかった。それで一般の学生が履修する教職の単位をわざと外していた。ただ、母の弟が都立高校の社会の教員だったし、兄は埼玉の高校で数学の教員をやっていた。身近にそういう人がいたので、自分にもできそうな気はしていた。

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 私の時代は一般教養科目として、人文・社会・自然の各分野で12単位、の計36単位。それに加えて体育が4単位、語学が16単位で都合56単位が2年生までに取っておく単位数の標準であった。それがなかなか取れなかった。
 
 3年生になると、理工系は一般にそうであるが、午前中は概説の講義、午後は実験で拘束時間が長い。実験は出席を取るから必ず出なくてはならない。それでいて単位は1単位である。講義科目は休んでも、試験だけなんとかしのげば4単位もらえるのでおいしい。ただ理科系ではこれをいい加減にやると先のことがまったくわからなくなるから、学生たちはおおむね真面目に出席して勉強していた。
 
 実習の成績がよいのはともかく出席したからである。この専門科目に加えて、5年目6年目に教職を取ったので、長くかかったのである。教職も後がない、と思っていたので、真面目に出たから成績はいい。専門で英文学史とあるのは、生物学科をやめて文学部に転部しようと目論んだことがあったからで、大学の相談室でカウンセリングを一回受けた。
 
 なりたてのカウンセラーは私の成績を調べると、君は成績が悪いから転部は不可能だ、といった。私は不満だった。事実がそうであったとしても、もっと言い方があるのではないだろうか。このカウンセラーは現在相談関係の学会の理事で、ある大学の教授である。
 
 この前勤務先で講演会があったとき講師として来られた。帰るとき、エレベーターの中で2人きりになったので、そのことを言ってみたが、昔のことで忘れているようだった。
 
 米文学史の講義は面白かったが、文学部の学生が多く試験は当然英語だった(問題も英語なら答えるのも英語)ので、さすがに歯が立たなかった。計156単位で卒業した。最低は124単位だから結構多く取ったことになる。

  99.7.9

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 あとがき:お詫び。このシリーズは、毎週土曜日の0時に発行するようにしていた。週末の気分でどうぞ、とのつもりである。今回は送信依頼をし忘れた。ぱーこシティを改造していてつい忘れた。送信設定しなくては、と思っているうちにその時期が過ぎていった、という感じ。外の時間と自分の時間がずれてきた。そういえば妻も「もう、こんな時間だー。最近のろくなった」と愚痴っている。私は、外の時間に合わせるのは自信があったけど、こうなっては致し方ない。これからは出来ないことをネタにしていくんだ。
 ↑ちっともお詫びになっていない。遅れたのは、発行システムのせいではありません。私が忘れたのであります。(2001.11.10 )