私の大学時代(5)

 大学に集合して各集会場に行くときは、中庭で決起集会を開いた後で、通用門から道路に出た。その時のことである。先頭の旗持ちが通りがかりの八百屋の軽トラックを止めた。運転手は仕方なく車を静止させたものの顔をしかめて露骨に嫌な表情をした。
 
 「急いでいるのに仕方ねえなあ。まったくいい気なもんだ」とでも言いたそうだった。旗持ちはフロントと書いた緑のヘルメットをかぶった男である。彼は自分の思い通りに車が止まったので得意満面だった。
 
 彼の理論によれば、学生・市民・労働者は連帯するべきであって彼の行為は労働者階級の意向でもあるわけだから、八百屋の軽トラは止まってしかるべきものなのだ。
 
 私は隊列の中にいて、運転手の八百屋に同情した。彼はもちろん大学も出ていないに違いなかった。ここは自分のいる場所ではない、とも思ったが他に行くところもなく、そのままデモ行進を続けた。私は悩める庶民というわけだった。
 
 そのうち気がついたのだが、学生運動でリーダー格の中には明らかに私よりずっといい家のやつが多かったように思う。彼らは真剣に考えていたが、それもまた与えられた条件が良いので許されているのであった。
 
 もっとも、貧しい中で運動に参加している者がいなかったわけではない。中核のリーダーを私は顔だけ知っていたが、彼が大学の生協で食べる昼食は、いつも一番安いcoopランチ100円であった。私は変に感動した。彼の目は澄んだバンビのように輝いていた。
 
 いずれにせよ、私は彼らとは知り合いになれなかった。彼らは律儀にデモに参加してくる私をどう扱っていいのかわからないようだった。セクトに入っているならいざしらず、ノンセクトである私がデモに強迫的に参加する理由はない。多くの参加者は友達づきあいの延長で来ているのである。
 
 顔見知りはできたので、道で会うと挨拶ぐらいはするがそれ以上関係は深まらなかった。入学して1週間ほどは一通り授業に顔を出したものの、後は集会に出るときだけ登校していた。
 
 例外は体育で、私は椎間板ヘルニアになっていたから、医者の診断書を添えて申し込むとTEコースというトレーニングの授業を取ることになった。これは自由が丘のボーリング場で遊ぶ、というコースである。
 
 費用はもちろん大学から出た。体育は必修だったので、障害のある者でも単位が取れるようになっていたのである。私は単位を取るために義務のようにボーリングをやった。同じような学生が10名ほどいたが、彼らとも顔見知りになっただけで、特につきあう関係には至らなかった。
 
 決められた時間ボールを投げればそれで終わりである。出席だけが問題だった。いやでもなかったが、特におもしろかったわけでもない。入学した1年間で取った単位はこの体育1単位を含めて13単位だった。最後にテストだけ出ていい加減なことを書いて単位をもらったのが、哲学4単位と文化人類学4単位。土曜日にあった特別な授業なので、結構出席した映画4単位である。
 
 哲学と文化人類学はそれでも自分で本は読んでいた。映画は、TVにも出ていた映画評論家の荻昌宏氏が非常勤講師をしていて、これは唯一おもしろかった。残りは履修登録だけして、結局捨ててしまった。特に必修の語学は毎年登録し毎年教科書を買い毎年単位が取れなかった。
 
 私は2年落第して6年間在籍したから、最後の2年間で必要な語学(英語とフランス語)の最低の単位を取ってなんとか卒業したのである。成績関係に話が及んだので、まとめて述べてしまおう。
 
 都立大学は2年から3年になるときにバリアがあった。必要な単位を取っていないと専門課程に進級できない。私は1年落第した。
 
 99.6.17

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 あとがき:都立大学の通用門は、柿の木坂を登った道沿いの左側にあった。浪人時代に毎年都立大学を受験したから、この道は何度も通った。この通用門で田中真理のロケを見たことがある。

 田中真理は1970年代の日活ロマンポルノのスターで、ロマンポルノのジャンヌダルクと言われていた。裁判闘争に出たり学園祭に呼ばれて講演したりしていた。ロシアの血が混じった清楚な顔立ちだった。「秋、どこかで水晶の音がしている」そんな空気の澄み切った午後、私が通用門に向かって歩いていると、中ぐらいのバンが止まっていた。そこからカメラを持った男が降りてきて、道の反対側に渡った。カメラを肩に乗せていた。続いて銀紙を貼ったレフ板を持った助手が出てきた。何か突発的に撮影が行われるのか、と思っていたら、最後にバンの後ろからコートを羽織った田中真理が姿を現した。

 そして通用門を背景に立つとにこやかな笑顔でコートの前を開いた。彼女は下に何も着ていなかった。それはほんの一瞬の事だった。カメラの男がOK!というと3人は車に乗り込んで走り去った。えっ、と思った時にはすべては終わっていた。
 田中真理は1971-73の3年間に18本のロマンポルノに出演した後、1977年のATG映画「北村透谷-わが冬の歌ー」を最後に引退したようだ。現在は結婚して実家の薬局にいるという。娘さんから若い時ロマンポルノに主演したことを責められているそうだ。
 都立大学は1991年、現在の南大沢に移転。この通用門も取り壊されているはずだが、私はそれ以降現場に行った事がないので確認していない。(2001.11.3 )