私の大学時代(16)

  タクシーから降りる時に「ほら、**さんしっかりしなさいよ」と酔っている私を車から運び出した。なんだか世話女房みたいである。彼女も酔っていたのかもしれない。私はタクシー代も払わなかった。彼女はまた車に乗り込むとそのまま帰った。

 それ以降その人と会ったことはない。美人で性格が良くて家が裕福で、こういう人が女子アナになるんだろうと思う。彼女からも年賀状が来た。教職は受験せずに留学する予定だ、と書いてあった。

 東京の教職採用試験の受験勉強しているとき、生物科の主任教授から連絡があった。小笠原高校の校長が生物の教員を捜しているから、一度会って見ろ、というのである。

 小笠原諸島は東洋のガラバゴスと呼ばれ固有種が多い。生物を研究する教員にとっては天国のようなところである。最僻地に加えて日本に返還されて間もないので、僻地手当・返還手当がついて給料は5割り増しという。

 都立大学生物研究室は小笠原に研究所を持っている。そこを調査研究する学生のグループについて行ったことがある。そういう機会がないと小笠原などというところに行くことはない。

 研究所とは名ばかりのプレハブの建物で、食事も島の食料事情を考えてすべて持ち込みだった。2週間ばかり食パンと魚肉ソーセージの主食でしのいだ。その関係で高校から都立大学に求人が来たのであった。

 小柄な用務員のような校長と会ったのは9月1日で、30分ほど話をした。ともかく採用試験に合格しなければ私としてはどうしようもない。と校長は言った。合格したら何とかしよう、との感触を得た。就職の話はどこにも確約というものがない。人事は当人だけで済む事柄ではないので、校長も明言を避けたのである。

 結局大学の関係筋から就職が決まるシステムに世の中はなっているようだった。東京都の採用試験の発表前に、慶応大学附属志木高校からも生物教員の採用予定がある、との話もあった。そのころは都立高校の方がいいような気がしたし、貧乏育ちの私は慶応の名前に怖じ気づいた。なんだか自分に合わないような気がしたのである。それで断ってしまった。

 今ならどう答えたか分からない。世の中は変わる。先がどうなるかはわからない。就職や結婚という人生の一大事でも意外とその時の状況次第なのである。他の人はどうだかよく分からないが私の場合はその時のノリで決めてしまったように思う。

 私は教員になったことをそれほど後悔していない。かといってこれが「天職」で自分にはそれ以外の仕事は考えられない、と思ったこともない。その場その場で与えられた業務を過不足なくやってきた(つもり)だけである。

 学科試験は合格した。2次試験は面接である。会場は兄が卒業した都立北高校だった。いわば地元である。この北高はすでに廃校になり現在は単位制
 の飛鳥高校になっている。

  やはり曇り空のうそ寒い日に慣れない背広に腕を通して試験会場まで足を運んだ。廊下で待たされた後、面接会場に通された。高校の会議室である。

 試験管は3人いた。2人が質問して後一人は観察している。私は2年落第しているので、そのことをうまく言い逃れる必要があった。そのための方便も用意していた。大学に入ってすぐに父が亡くなったので生活の必要からアルバイトに時間を取られて卒業が遅れた、という言い訳である。

  苦学生を演じて同情心を買おうと思ったのであった。ウソをつくなら事実を半分入れなくてはならない。そして自分もそれを信じ込むことである。学生運動に少し関わったことは隠さなくてはならない。女性コンプレックスの神経症も感ずかれてはならない。

 質問は予想していたものが多かった。まず志望動機であった。なんで教職を希望したかとの問いにはあらかじめ用意したことを答えた。「兄、叔父が教師をしていて自分に身近な職業だった」というものである。それに学校の試験で点が取れたから、と付け加えた。いずれも事実であった。

2000.7.15

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 あとがき:教育実習生の打ち上げは池袋でやった。池袋駅西口を出てすぐの地下にある店だった。名前は覚えていない。現在西口には都の芸術劇場がある。その手前が公園になっている。今は整備されているが、当時は地面も土で空き地のようなところだったと記憶する。飲み会で何を話したかは記憶にない。2時間ほどいて、帰る者と2次会に行く者とに別れたと思う。私は酒に弱いから、すぐに眠くなった。歩いて帰るのがおっくうだった。

 N女子大の彼女が、タクシ-で帰るから一緒にいく人はいませんか、と誘った。タクシー乗り場で少し並んで待ったことは覚えている。次の思い出すのは、後ろの座席でその彼女の肩にもたれかかっていたことである。酔っていなければそういうことは絶対できない。その時、私は酔っているからかまわないだろう、と自分に言い聞かせていたのをはっきり覚えている。さらに相手も見逃してくれるのではないか、という打算の意識もあった。

 面接の時に「苦学生を演じて同情を買おうとした」のと同様に、酔っていることを言い訳に彼女の丸い柔らかい肩に顔を押しつけていたのである。それは当時の私にとって甘美きわまりない時間だった。次の記憶が、この号の冒頭になる。その人が嫌がっていないのが、その時の私には奇跡に思えた。(2002.1.19)