私の大学時代(18)

 小笠原に行ってからのことは機会があれば「私の教員時代」にでも書いてみたい。そうやって私は東京都の教員になった。大学6年間は社会に出るための準備期間だった。

 前半はバイトばかりしていた。後半もバイトしながら必要な講義だけ出席した。とても真面目に勉強したとはいえない。それでもその資格で教員になることができた。地方公務員である。財産も特技もない私はこの仕事にしがみついていればそこそこ収入が保証され生活できることになったのである。

 それは浪人時代から考えると大きな変化だった。自分が世の中から一人取り残されていて、どこにも居場所がなく何をどうしていいかわからない。そうした困惑の時期を抜けたのにはある転機があった。

 それは現場のガラス工事のアルバイトをやめようとしていた時期だった。バイト時代で述べたように、椎間板ヘルニアがひどくなり痛くて仕事を続けるのが難しくなってきたからである。

 病院に通っていたが、決まり切った治療しか受けなかった。牽引ベッドで腰を伸ばし超音波で患部を暖めた。そして痛み止めと血流が良くなる薬をもらった。手術も考えた。医者のいうには、完治する確率は5分5分で、うまくいかなければ半身不能になるということだった。なんとか日常生活は出きる。治る見込みがはっきりしない手術を受ける気はしなかった。

 大学には時々出席した。実験の授業を黙々と行った。落第しているから一緒に入学した学生はもう上級生で同じ講義を取っている者はいなかった。下級生は私をどう扱っていいのかわからないようだった。

 ただでさえ3年浪人している上に落第までしている。教員から「君は本学の学生か」と聞かれたこともある。都立大学は少人数制で生物学科の1学年の定員は当時15名、実習では泊まり込みになるから学校に来ている学生のことはたいてい知れていた。

  入学の頃に顔見知りになった学生運動に関わった人たちはおおよそ2つに別れる。政治運動の退潮とともに自主退学して大学と縁を切った者、彼らとは顔を合わせることはなかった。もし道端で会ったとしてもお互い無縁の他人である。

 考え直して授業に出て卒業を目指す者もいた。彼らは下級生の中で私と同じように黙って課題をこなしていた。下級生に対しては普通に対応しているが、私のように昔の事情を知っている者に対しては、触れてくれるな、という感じで顔を背けた。

  後ろめたかったのだと思う。特に思想的根拠もなく義務のようにデモに参加して自分の考えを言わない私に対して「お前の主体性は何なんだ!言って見ろ!」と迫られたこともあった。そういうことをした自分が「体制内存在」である大学の単位を取って卒業しようとしているからだ。もっとも彼らは自分の考えを信じていたから、大学に戻って来るときは私よりつらかったのかも知れない。

 浪人時代と同じく、精神的には最低だった。受験勉強がアルバイトと必要な授業に変わっただけで、未来の希望もなく毎日をやりすごしていた。そういう私が日課のようにしていたのは、日記を書くことだった。

  これも浪人時代と同様、その日一日自分の身の回りに起こったことを寝る前に書き記した。夢もよく見た。学生運動で知り合った他大学の女子学生のものが多かった。彼女は4年生だったが大学をやめ郷里に帰っていた。それから2年も経っているのに、依然としてその夢を見ていた。また中学高校浪人時代に片思いをしていた女の子の夢もよく見た。そういった夢も記録した。

2000・9・2

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 あとがき:こんな風にしてなった教員家業も26年となる。あと最後に一仕事して、とっととおさらばしたいところだ。ここに来るまで自分がそういう気持ちになるとは思わなかった。その時になってみないとわからないことはあるもんだ。

 前任校で大変出来る先生がいた。小学校1年生の時敗戦を迎えたその方はなんでも知っていた。始めは生徒からうるさがられるが、卒業時になると別れを惜しむ生徒で門前市をなす、といった感じになった。校長教頭も頭があがらなかった。

 管理職には絶対ならない、と言っていた。そこには他人には説明しにくいある信念があるようだった。ある時退職後はどうするんですか、と聞いたことがる。定年になったら公園の落ち葉でも掃いて暮らすよ、と笑ってつぶやいた。

 その時私はこれだけ出来る人がなんでそんな世捨て人のようなことを言うのかまったくわからなかった。大げさにいえば社会的に大きな損失じゃないか、とまで思った。今なら少しわかる。(2002.2.2)