私の大学時代(3)

 学生運動のビラには、現在の政治状況、それに反対するための集会の日時と場所が記載されていた。私が多く参加したのは全学共闘会議、略して全共闘の集会だった。共闘、というとおり政治的な主張は違うが、共通項があれば共に行動しよう、というのが趣旨だった。
 
 政治的な党派は多数ありそれぞれに上部団体があるようだった。政治的な立場がはっきりしているグループをセクトと呼び、それに属さない集まりをノンセクトといっていた。
 
 学生の政治的な活動は大きく2分されていて、共産党の影響下にある民青(民主青年同盟)とそれに対立している全共闘という色分けだった。そして、全共闘の中に中核派革マル派社青同、共産同、反帝学評、などのセクト無党派ノンセクトラジカルが含まれていた。
 
 セクト名は略称だが、私は未だに元の長い名前を覚えている。革命的共産主義者同盟中核派革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派、社会主義青年同盟解放派反帝国主義学生評議会、などであったと思う。
 
 全共闘はヘルメットをかぶりタオルで覆面をしていたが、そのヘルメットの色がセクトによって違っていた。革共同(中核と革マル)の白、社青同の青、共産同の赤、反帝学評の緑、ノンセクトの黒、といったところである。集会があると、その色とりどりのヘルメットはなかなかきれいだった。色ヘルメットに独特の文字で自分の所属を描き、後ろには大学名を書いた。
 
 私は門のところや教室で受け取るビラに書かれている日に集会に参加してみた。当日はまず、学内で集会をして、時間が来ると集まって電車に乗って会場に行った。代々木公園、明治公園、日比谷公園野外音楽堂、などが大きい会場で、そこに主催者発表2万人、公安発表1万人といった感じの人間が集まった。人数が違うのは、主催者側は多めに発表し、警察は少な目に公表するからで、実体はその間くらいだと思う。
 
 集会が2時間ほど続くと、デモ行進にうつる。普段は歩けない車道のわきを並んで歩いた。国会や企業のそばに来ると、スクラムを組んでジグザグに走ったりした。これは違法なので、警備の機動隊と衝突した。機動隊は車道側に並んでいるので、女の子は歩道側を歩いたりしていた。
 
 解散地点へ来ると流れ解散になり、それぞれのセクトなどで集合場所が決まっていた。総括集会というのをやって、後はバラバラに帰るのだった。
 
 4月に入学して始めての大きな集会は4・28の沖縄返還に関するものだった。次が5・15、6・8、6・15、6・23とそれぞれ条約の提携された日とか、10年前に東大女子学生がデモ中に死んだ日とか、記念日のような感じで集会がもたれた。
 
 私は一人で集会に参加し一人で帰った。他の参加者は集会に参加する以外にも付き合いがあるようだった。同じサークルに入っていたり、お互いの下宿に行ったりしているようだった。それは集会に行く道すがら彼らが話しているのを聞いているとわかった。
 
 私はビラに書かれている政治的な状況把握や「闘争」の意味など信じていなかった。信じていない、というよりも、自分には直接関係ないと思っていた。そう言えば、大学の授業も無関係なら福寿荘の家庭生活も寝たきりの母親も兄や姉も無関係といいたかった。
 
 実際はそういう中で生活しているくせに、どうにも自分の収まりがつかなかった。どこへいってもそこが自分のいるべき場所でない、といった感じにつきまとわれていた。一度顔を出すと義務のように、まったく自分にとって意義の感じられない集会に仕方なく出ていた。
 
 そうしてそのことを話す相手は誰もいなかった。なんどか機動隊にこずかれたり、殴られたりした。逮捕されそうになるとあわてて逃げ出した。
 
  99.5.16

━━━━━━━━━━━━━━
 あとがき:1970年にはすでに学生運動は退潮期に入っていた。都立大学は「民主的な」大学だったので、大学紛争(という用語を使うのは民青系で、全共闘は大学闘争と言っていた)の処理は一番最後になった。もっとも大学が熱かった3年間は私が浪人していた時期だった。そして入学してみると、新入生はすでに次の世代に入っていて、いまさら学生運動に関わりを持つ者はごく少数だった。ある意味「遅れてきた青年」というわけだ。同じ生物学科に入学した者のうちで、私のような立場にいた男が一人だけいた。彼はのちにアニメ-ジュに入社する。櫻風狂次といったような名前で同人誌に参加していた。上級生のうち運動に関わっている者は、意志の固い人間でその多くは大学を去った。私は上級生とも新入生とも馴染むことが出来ず、ひとり悶々としていた。(2001.10.20)