私の大学時代(10)

 母の死因は窒息死だと思われた。姉が用意したおにぎりを喉に詰まらせたのだろう。体力の弱っていた母はしらすやちぎったほうれん草の入った栄養のある冷えた握り飯を嚥下できなかったのだ。

 第一発見者は私である。長い間、私は母の死んでいた部屋の印象をなんども思い出した。冬の寒い夕方、午後遅い太陽の光が薄く射し込む部屋でラジオだけが異様に大きな音を立てていた。ドアをあけた時、時間が止まってしまったようだった。

 その部屋のその時の印象はいかにも「実存主義」という感じで、父の死んだときと同様、死という事実だけがごろんところがっていた。それから10年ぐらい経ったとき、あることに思い至って愕然とした。

 あのラジオの大きな音は、母が助けを呼ぶために音量のつまみを回したからではないだろうか。福寿荘は2階建てだった。1階は管理人の家族と私の家族で占拠していた。そして昼間は出払っていて誰もいなかった。

 喉の詰まって動けない母は、助けを呼ぼうと最後の頼みの綱にラジオの音量を上げたのではなかったか。そのことにまったく考えが及ばなかった自分を責めた。何が「実存主義」だ、いい気なもんである。もっと事実をきちんと見なければいけない、と思った。本当のところはわからない。しかし自分の受けた印象だけでものごとを決めるのは良くない。それがまぬけな10年を過ごした後のせめてもの教訓である。

 母は若いとき一度売店の売り子をしただけで、結婚した後は仕事に就かなかった。父の田舎に行ったときも、田舎のおばさんたちが立ち働いているなかで、縁側に座ってぼーとしていた、という。「箱入り娘」だからしょうがない、という声も聞こえた。

 晩年具合が悪くて寝たきりの母の印象が強い私には、母がとても「お嬢さん」育ちだとは思えない。しかし、気だての優しいおっとりとしたところは確かにあった。

 小学校に入り立ての時、私が騒いで母に叱られたことがある。その時、母は「これがよその家だったら修ちゃんは叩き出されているよ」と言った。私は黙っていたが「そう思うんならやってみろよ」と心の中で悪態をついていた。

 母は子供の私を強く叱れない自分を情けなく思っていたのかも知れない。浪人時代、歯並びが悪くこんな自分は女性に嫌われるに決まっている、と「醜貌恐怖」に捉えられていたときも「修ちゃんの顔に日の光が当たると、キラリと光っていいよ」と母に言われると、この母だけは自分を嫌っていないのかも知れない、と思い直したりした。

 母の人生は子供を6人産んで、そのうち一人は小さいときに死なれ、残りの5人を育てだだけのものである。母の両脚には大きなほくろの様なしみがあり、子供を産むたびに増えていった、と言っていた。

 晩年は十年以上、間借りアパートの4畳半から出ることなく幽閉生活を送って死んだ。

 私は小学校4年生の時に、自分がいるとはどういうことか、と考えた一時期がある。私の結論はひどく当たり前のものだった。私は親から生まれたので、その点においては、両親は絶対的にえらい、というものだった。

 そう思いついた時は親に感謝したが、そういう思いと実際に親にしたことはまた別ものである。親につらくあたったことはないと思うが、特にやさしくした記憶もない。

 浪人時代から大学時代は、不遇な自分を嘆き、この不平等な世の中を内心恨み、それを他の人に悟られないようにするだけで精一杯で、親を初めとしてとても他人の気持ちまで思いやる余裕はなかった。

 なんだか自分の中にだけすべてため込んでじっと我慢している、そういう自分を思い出す。

99.11.3

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 あとがき:遅く生まれた私の両親はこうして私が20代の始めで亡くなった。親がいないというのは気楽なものだ。自分のことは自分で決めたとおりになる。貧しかったので、財産も何もない。遺産などというやっかいごとがなくてこれも良いことであった。私もいつ亡くなるかわからない。なるべく、面倒がないように身の回りのことはだんだん始末していこうと思っている。(2001.12.8 )