私の大学時代(11)

 大学に入学して2年の内に両親が亡くなり、バイトに明け暮れた後2年落第して、一度はやめることも考えた。先に当てがあるわけでもない。工事現場で腰を痛めたのを機にその仕事をやめ、家庭教師関係のバイトでなんとか食いつないで6年かけて卒業した。

 大学時代で他に述べておきたいことは、女性関係のことだが、発表の媒体が高校のクラス通信ということを考えるとひるむ気持ちがあり、また今はそのことに触れたくない気分でもあるので、書きしぶっていた。

 残るは就職活動のことしかない。大学卒業から今に至るまで教員をやっている。その始まりを記録しておく事にしよう。

 いよいよ大学を卒業することになって当然就職ということになるが、仕方なく大学に籍を置いているだけで時間ばかりが過ぎていった。卒業時は27歳になっていた。進学していれば大学院の博士課程修了の年である。大学卒とはいえ、新卒対象の求職活動などできるはずはない。

 当時、一般企業の求人は普通は2年遅れまでで、たまに3年遅れても受け付ける、という会社があるくらいだった。高校を卒業するときはこんな状態ではとても会社に入って普通の社会生活が送れるはずはない、と思って時間稼ぎのために3浪したのだった。さらに2年落第して、5年人より遅れても、相変わらず会社に入って当たり前の人間関係が築けるとは思えなかった。

 受け付けてくれる会社もない。だが公務員採用の年齢制限はまだ余裕があった。特に教員は30すぎても大丈夫であった。生物学科の同窓生の半数は大学院に進学し残りは研究関係の民間企業に行くか教員になっていた。たまに出版社などすこし外れた就職をするものもいた。

 私の叔父は都立高校の社会科の教員だった。兄は埼玉の高校で数学の教員をしている。身近に教員をしている人がいたので、私にもできそうな気がしていた。

 現場の仕事をやめてつぎに始めたのは、能力開発センターという塾の講師であった。大学の学生課の求人広告でみつけた。こう言うときは大学の名前がものを言う。簡単な履歴書を書いて持っていくと、都立大学の学生ということだけで特に面接もなく採用になった。

 生徒は主に小学生で、進学塾を銘打っていたが、勉強のできる生徒は少なく、補習塾のような性格が強かった。場所は足立区で日曜講習の講師から始まった。

 私立の女子高を借りて日曜日はそこが塾になるのである。女子高に入るのは初めてだった。教壇の上には花とおしぼりが置いてあり、廊下の突き当たりには大きな鏡があった。その教室に20人くらいの小学生を入れて、塾の用意した教材を説明する。

 算数や理科を担当した。受験勉強はかなりやりこんだから小学生の教材なら予習しなくてできた。ペイも時間あたりにするとそれほど悪くなかった。生徒の受けも良く、塾から紹介されて受講生の家庭教師までやった。日曜日だけでなく春休みなどは宿泊講習会の講師もした。

 場所は三里塚だった。成田空港の客をあてこんで建設した成田ビューホテルというところで春期講習会をすることになった。1週間ほどの泊まり込みで集中特訓をするというふれこみである。ここは1971年に三里塚闘争の様子を見にきたところである。

 空港がまだ営業していないので、ホテルを建てたのはいいが、客がいない。そこに塾が目をつけたのであった。私は小学生の低学年を受け持った。勉強よりも始めてホテルに泊まる小学生の世話をして終わったようなものである。

 ある時、教室(とはいえホテルの一室)で窓際のカーテンに男の子が隠れてうつむいていた。周りで「先生、こいつ臭い」とはやし立てている。そばに行くとたしかに匂う。トイレに連れていくと雲古をもらしていた。シャワーを浴びさせ下着を代えてやった。

2000.1.25

━━━━━━━━━━━━
 あとがき:自伝シリーズでは、父の亡くなった後すぐに母も逝ったことになっているが、どうも記憶が曖昧である。禁断の日記をひもとけばすぐにわかる。だが強いてそうする気もしない。それでそのままにしておく。全身小説家という映画がある。井上光晴のドキュメンタリーだ。これを見ると、井上光晴の来歴がまるでウソなのだ。それを堂々と押し出している。さすが全身小説家である。この自伝シリーズも日記を読んで事実とつき合わせてみれば結構あわないところがありそうだ。人間の記憶は(と一般化するのが悪いなら、私の記憶は)結構いい加減である。自分に都合のいいように記憶は再編される。そしてそれが誰にも確かめようがなければ、そのまま通用する。そこにも一抹の真実はあるのではないだろうか。(2001.12.15)