体を壊して現場仕事をやめた後始めた教育関係のバイトがまずまず好調だったので、教員になることを思い立った。ところが自分は教員になどなれるわけがない、と思っていたので、教員免許に必要な講義をとっていなかった。
特にその気がなくても教職課程はとっておく学生が多い。大学に入って3年ほどはバイトばかりしていて通常の単位もろくにとっていない私が卒業前にまとめて教職の単位を取ることにしたので無理がある。
青年心理学とか日本国憲法とか教科教育法とかいう単位を取るために、教養学部のある目黒校舎にまでわざわざ出向いて、授業を受けた。集中講義も受けた。集中講義というのは、1年分を1週間でまとめてやる講義で朝から晩まで授業を受けて最後に試験がある。出席がうるさいので出ることはでたが、半分は寝ていた。テストもなんとかこなしぎりぎりで単位だけは取った。
教育実習にも行かなくてはならない。これは教職に必要な単位を修得していることが条件である。私は落第しているから、修得見込みでなんとか許可してもらった。
教育実習は出身校の滝野川中学でやった。この自伝シリーズは高校時代から始まっていて、どうもろくでもない話ばかり書いているが、中学時代はけっこう面白かった。中学時代世話になった理科の先生がまだいて、その先生が指導教員を引き受けてくれた。
6月の2週間ほど毎日中学校にいって先生の見習いをした。私以外に6名来ていた。そのうちの何人かはいまだに名前を憶えている。
K學院大学からは2人。一人はF本というやさ男で、実家が神社関係で神主の資格を持っていた。ていねいなお姉コトバを操る、ちょっとあっち系の感じがした。私は秘かに「オカマ神主」と呼んでいた。
もう一人はK葉子という滝野川中学の卒業生である。私は人より5年遅れているから中学の後輩と言うことになる。これぞ国語の教員!というようなきれいな字を書いた。
N女子大学から2人、T千津子という数学専攻の小柄なかわいい感じの人と、一番美人だった(この人の名前は忘れた)英語の人。英語はもう一人、A学院大学の少しキザな男子学生がいた。
体育はN女子体育大学から来た人で、この人は小柄なタレントのような整った顔立ちをしていたが、性格がさっぱり好男子という感じだった。それに猫背で年長のさえない私が理科を担当、この7人がその年の教育実習生だった。
私の「恩師」の人使いは荒かった。私の担当時間は週20時間で、理科の第一分野をやった。このとき考案したネタは今だに使っている。デモクリトスの粒子論から分子記号までを説明する、というものである。
中学生たちは若い先生見習いが来たので大喜びだった。一番生徒に人気のあったのは、数学のTさんで最後の授業の時は生徒達から両手に抱えきれないほどのプレゼントをもらって涙ぐんでいた。
梅雨の朝、校門で週番指導をしていた時、彼女が小糠雨に濡れている私に傘をさしてくれたことがあった。彼女にしたら普通の親切だろうが、私はこのことを忘れなかった。彼女の実家は静岡県で、夏の教員採用試験を受けるとき、彼女の帰郷に同行した。私は静岡県の採用試験も受験したのである。
電話で連絡して、東京駅で待ち合わせた。半日隣合わせに座って高速バスに揺られていたが、話らしい話をした記憶がない。例の女性コンプレックスで私は緊張していたのだろうと思う。
ただ覚えているのは、清楚な白い半袖のブラウスから出ている彼女の腕が意外と毛深かったことである。「毛深い女性は情が深い」などと雑誌から得たくだらない知識を思いだし、もやもやしていた。
2000.5.24
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あとがき:教員になった時に、20年たったら教員をやめようと思っていた。当時は20年勤めれば年金がつくことになっていた。年金とはなんだか良くわからなかったが、仕事をしなくても最低限の収入があるぐらいに思っていた。20年経って47歳になった。
そしたら年金の制度が変わっていた。それに絶対無関係だと思っていた家までローンで買ってしまった。それからやめても特にすることもない。気がつくと勤続25周年の表彰までもらってしまった。昨今の状況を考えると仕事があるだけでも恵まれていると言わなければならない。
現に妻の40年来の友人のお宅では、私と同年代のご主人がリストラである。名前を聞けば誰でも知っている大企業にお勤めであった。バブルの頃は、私の2倍も収入があったという。
まことに諸行無常という他ない。先のことはわからない。その時その時をなんとかやるすごししかない。今後も私は目の前のことを追いかけるだけで、棺桶に直行するんだと思う。(2002.1.5)