さよならだけが人生だ(2)

 始めの意気込みとは逆に淡々と卒業式は終わった。教室に戻って簡単な事務連絡があり、それからロッカーの整理をして、1度帰宅した。本番はこれからだった。夕刻から飲み会がある。先輩たちが企画したのである。
 
 卒業した高校の1学年は7クラスあった。機械科3、電気科2、電子科2のクラス編成で電子科が一番軟弱だと言われていた。機械科は体力勝負である。電気科は何万ボルトもの高電圧を扱う。それに比べて、電子科の相手はせこい半導体。私のクラスはどん尻のG組だった。
 
 体育祭は縦割り編成のクラス対抗だった。優勝は大抵機械科が持っていく。これはまあ仕方がない。だが昼休みの応援合戦はそうとは限らない。応援もクラス対抗で、3年が団長を務め下級生が団員となる。私が2年生の時は渡辺先輩が団長だった。目立ちやがりでおっちょこちょいの私は2年からこの団員だった。3年の時は団長をやった。応援団というと硬派ばりばりの印象があるが、それは機械科にまかせておいて、電子科は少し外した路線だった。特に渡辺先輩は三三七拍子をコミカルに演出した。
 
 卒業してからも先輩たちは体育祭に姿をあらわした。そういう付き合いの延長線上に卒業式の飲み会が企画されたのであった。
 
 場所は池袋北口のとんかつ大学である。とんかつ屋だが2階が座敷で宴会ができるようになっている。そこへ先輩3,4人とG組卒業生が30名ほど結集した。何人か来なかったが、ほぼクラス全員が姿を見せた。1次会は何と言うことなく終わった。ほろ酔いで2次会に繰り出した。渡辺先輩の家でやることになった。確か池袋から東上線で大山まで行って、少し歩いた所の屋敷だった。木造2階建てで、2階の広間は20畳ほどあったと思う。
 
 参加者は10数人になっていた。これが後々まで語り継がれる地獄の飲み会になったのであった。もう帰る心配がないとわかると、ビール日本酒ウィスキーと取り混ぜて飲んだ。当時はワインと言うような酒は一般には出回っていなかった。
 
 K沢という電子科には珍しく体格のいい奴がいた。消防庁に就職が決まっていた。そのK沢がおかしくなった。妙にしんとして顔色が青白くなっていったのである。そのうちお膳に突っ伏したまま動かなくなった。始めは気にしていなかったが、いつまでたってもそのままなので、先輩が顔を起こしたら口から泡を吹いていた。
 
 それで大騒ぎになった。救急車を呼んだ。体の大きいK沢を階下に降ろすのに、雨戸を外してその上に乗せた。それを4,5人で持ち上げて運んだ。家に電話して、先輩が病院についていった。急性アルコール中毒だったらしい。残った我々は飲み疲れで押入から布団を取り出すと適当に広げて寝始めた。寝てから吐く奴が続出した。
 
 翌朝起き出してみると室内は凄惨な状況になっていた。ゲロ屋敷と化した先輩の家から挨拶もそこそこに我々は逃げるように退散した。
 
 私は就職もせず、受けた大学は皆落ちてしまったから家でごろごろしていた。K沢がその後どうなったかわからない。死んだという話は聞かないから、おそらくは消防員になったんだと思う。ゲロ屋敷から生還した同窓生でその後会ったのは、飯塚、田辺、大橋ぐらいのものであった。渡辺先輩にもそれ以来会っていない。もう34年間も会わなかったから、これ以降も会うことはないものと思われる。
 
 現在お相手している生徒諸君の名前はすぐに出てこないのに、この時の級友の名前は覚えている。会田、飯島、飯塚、池田、上田、大橋、大久保と続く。だが今会ってもわからないかも知れない。別れた時には、後でいくらでも会う機会がある、と何となく思っているが、そう思っているだけで時間は瞬く間に過ぎ去っていくのである。もっともどうしても会いたいわけでもない。そういう事実を指摘しておきたいだけである。


(2001年 演劇部HP)