私の教員時代(3)

 彼女と初めてキスしたのは、12月の暮れも押し迫った頃だった。年内の授業が終わり、例の学生室で飲み会になった。私と彼女の他に下級生が2、3人いたと思う。

 それまでに私は彼女の歓心を買おうとレコードや本を貸したりしていた。そうやって用事を作って彼女と話をした。別に嫌がっているようには見えなかった。何しろ私は人生経験豊かな先輩なのだ。ちょっとちょっと、という風に彼女は私を手招きした。だいぶ酔いが回ってきて、何人かは帰っていた。あと一組、2人連れがいたが、そっちはそっちでなにやら話し込んでいた。

 彼女は私のそばにくると「もうだめ」と言った。妙に明るい口調だった。彼女が想いを寄せていた男の決定的瞬間を目撃した!というのだった。その時も冗談口調だった。私はどう対応していいかわからず、うんうん、そうかそうか、とうなずいた。決定的瞬間というだけで具体的なことは何一つ彼女の口からでてこない。私はなんとなくその男と相手が抱き合っているところを目撃した、とかそんなことだと思った。

 そうやって余裕のある振りをしていながら、私は香川知子を見た。ジーンズに白いセーターという格好だった。そのセーターの胸や、内側に曲がっている脚や、顔や短い髪を見た。ここに女がいる、そう思って目が離せなかった。そしてそのことを彼女に悟られてはならない、と緊張していた。

 「あ-もうなんでもいい。」と間延びした口調で言うと彼女はゆっくり机に腕を置いて顔を伏せた。おいおい大丈夫かい、と私も軽い口調で彼女の言い方をまねた。彼女の頭と肩が見える。これなら感づかれない。私は改めて彼女の体を見た。彼女はそのままじっと動かなくなった。そして肩が小刻みに上下した。深く息を吸ったかと思うと、小さく嗚咽していた。

 私は事態の急変にあせった。泣いてるのか、と冷静に口にしたつもりだったが、自分の耳に聞こえる自分の声はかすれて震えていた。私はすばやく、教室の端を見た。するとさっきまでいた2人連れはいなかった。とたんに動悸が激しくなった。私はドアから誰か入ってこないか、気にしながら彼女の肩に手を伸ばした。

 彼女に触れるのは初めてだった。触れたとたんに起きあがって私のことを糾弾するのではないか、と恐れた。その恐れとは関係なく私の指先はそうっとセーターに触れた。それから手のひらを軽く押し当てるように進んでいった。だれか入ってこないかと気になる。触れた手から彼女の呼吸が感じられた。少ししゃくり上げているようだった。私はゆっくり手のひらを押し当てて彼女との接触面積を広げていった。そこから体の熱が伝わってきた。そして不思議なことに、彼女の体に面している私の体の半面が赤外線ランプの放射熱を浴びたように熱くなった。

 その熱を感じながら、手から伝わってくる彼女の呼吸に自分の呼吸を重ねるようにして合わせていった。それは慎重な作業だった。そうやって、彼女の肩においた自分の手がゆるゆる形をなくして彼女の体にとけ込んでいくのを見守っているイメージが浮かんでいた。彼女は拒んでいない。その考えが不思議な事実のようにひらめいた。

 しかし私はどうしていいかわからなかった。大分長い間そうやって彼女の肩に手をあてていた。彼女がゆっくりと体を起こした。私はあわてて手を引いた。「あー、疲れた」と彼女は言った。そして私の方を向いて弱々しく笑いかけた。彼女に触れていた手はじんじんと痺れて感覚が無くなっていた。彼女の方に寄せていた自分の体を起こすと私はそのまま立ち上がった。

 「屋上へ行こう」自分でも予期しない言葉が自分の口から出た。そしてそのままドアに向かって歩いていった。彼女がついてくるかどうかわからなかった。私は振り返らずにずんずん歩いてエレベーターのところまで行った。まっすぐ歩いているつもりでも足がずっと下の下の方にある感じがした。エレベーターのボタンを押して壁に体をあずけた。動悸が激しい。酔いが急に回ってきた。

 エレベーターのドアが開いた時、彼女が近づいてきた。そして体をどん、と私にぶつけた。もう、どうなってもかまうものか、と思った。エレベーターの中になだれ込むようにして入った。ドアが閉まる。すごく明るかった。彼女は入り口のワキの隅に背中をあずけて立っていた。その彼女の顔に自分の顔をぶつけた。

 2002.6.2

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