私の教員時代(1)

 1976(昭和51)年3月31日(水)午後6時、私は竹芝桟橋の父島丸デッキにいた。船はまさに出発しようというところだった。当時はまだ出航前にテープで別れを惜しむことが許可されていた。友人、知人たちが20人ばかり見送りに来ていた。

 竹芝桟橋から1000km、東京都にありながら「世界で一番遠い」島小笠原に教員として赴任することになった。東京から船中2泊して38時間、TVは映らない。船で運ばれる新聞は10日に1度、電話は交換手を呼び出して依頼し、接続されると局から呼び出される。そんな太平洋上の孤絶した群島小笠原諸島

 工業高校を卒業して9年経っていた。落第して過ごした大学卒業前の2年間はそれまでの引きこもり生活からうって変わってあちこちかけづり回っていた。躁鬱状態と自分では呼んでいた。尋常でないことには変わりない。

 高校時代のただ一人の友人Aが進学した和光大学の知り合い、都立大学の知り合い(同期の連中はほとんど卒業するか退学していたので、下級生の知り合いが多かった)、一番長くバイトした不遇の職人、一徹者のオヤジさん、母校滝野川中学の教育実習で知り合った実習生、そうした知人たちが桟橋の縁まで出てきて、テープを握っていた。

 ドラが鳴り響き霧笛が鳴いて船がゆっくり桟橋を離れる。皆声を上げて別れの挨拶をする。26年後の現在和光大学教授であるM氏は、私の記録映画を撮るといって16mのカメラを回していたはずだ。

 私はテープの束を握り手を振りながら、桟橋の端の方を目で捜していた。
 やはりいない。

「わたし、見送らない、からね。とても、だめ」
香川知子(仮名)はそう言った。

 彼女は都立大学の下級生で現役入学していたから6歳年下だった。どうしてそういうことになったのか、良く憶えていない。浪人時代からの女性コンプレックスはずっと続いていた。だが私の気分には周期的変動があって、もうなんでもできる、どうなってもかまわない、そう思える時期が何度かやって来た。そういう時、自分で勝手に「私信シリーズ」と称して、たまたま出会った女の子に手紙を出しまくった。この前会った時、どんなに相手がすばらしかったか、自分はあなたのことが気になって仕方がない、そういう稚拙なラブレターである。

 何より勝手なのは、手紙の続きを次々と別の人に出していた。私の中では連続している一連の手紙だった。受け取る人はそのつながりの断片を受け取っている事になる。そうして、ほとんど相手とは会おうとしなかった。

「きちんと目を見て話したい」と電話で言われたことがある。わたしの心は震えた。震えるほど喜んだが、同時に震えるほど畏れた。結局そう言ってくれた相手とは会わなかった。当時の私に言わせると、世界中の女性はすべて自分にとって聖なるものの象徴で、その具体的な現れがそれぞれの個人なのであった。だから一連の手紙が別々の人に届いても、私の中では同じ相手に向かって語りかけていることになるのである。

 その思いは自分にとって切実なものだった。同時にこれが尋常でないことも頭では承知していた。だから普段は日記にその記録を克明に綴るだけで、現実的なことはいっさいしなかった。私が女性に相手にされることなどありえないと思いこんでいた。傲慢だった。その時期だけなら他人に害はない。だがそうした鬱屈した時期が限界点に達すると、突然、もうどうなってもかまわない!と心の中で叫ぶものがあった。毎日3通ぐらいは平気で出した。その一つ一つに連番を振り日記の一番最後に記録した。

  そうした相手のたぶん最後の人が香川知子であった。

 2002.5.6
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 あとがき:連休の最後になってようやく始めることができました。お手紙ありがとうございました。色々考えましたが、大学時代の続きの教員時代をそのまま続けることになりました。書き始めの予定では、自分の見たい映画を見るように、書いていけたらいいかもしれない、などと浅はかなもくろみを立てました。ならば小笠原へ出発するところから始めればいい、とここまでは良かったですが、いざ始めて見ると話はどんどんそれていきます。だからこの先どうなるかわかりません。最近はホームページの伝言日誌に時間をさいていました。それで自伝シリーズのようなものがかけるかどうか不安でした。なんとかできそうなので、今後ともよろしくお願いします。週1発行の予定ですが、少し不定期になるかも知れません。ご了承ください。(2002.5.6)