寺山修司(3)

 これから出社する勤め人に混ざって、あらかじめ調べた地図の通りに進んだが、いつまでたっても文化放送らしき建物は現れなかった。そのうち番組の始まる時間になってしまった。あわててハガキに書いてある番号に赤電話から連絡した。交換の女の声の後で、男が出た。もう間に合わないので、今回はあきらめてください、と事務的に言われた。
 
 なんだかバカみたいだった。あれだけ興奮して色々思い悩んだことがまったく無駄だったのだ。それが自分の迂闊さのせいなのだ。誰にも文句をつけることができない。ただ誰にも言わないで決行したので、未遂に終わっても、何も言われなかった。それもつまらないと言えばつまらない結果だった。
 
 1週間ぐらいして文化放送の名前の入ったボールペンが記念品として送られてきた。あきらめずにまた応募してください、と書き添えてあった。
 
 次に寺山修司のところにいったのは、自伝シリーズでのべた一浪の時である。ずっと暗い時期を過ごしたあと、突然自分がなんでもできるような気がして、睡眠も2時間ぐらいであちこちかけずり回る時期が来る。本人は上機嫌だが、回りはかなり迷惑であろう。本屋で文化人、芸能人の住所が出ている本を見つけて、ただちに電車に乗って寺山修司に会いに行った。
 
 その本によると、当時、寺山修司は祐天寺に住んでいた。駅から歩いて5分ほどのマンションである。階段を登った突き当たりにドアがあり、表札に寺山修司と書いてあった。お昼前の午前11時半頃だった。呼び鈴を押すと、中から「はあい」と女の声がした。そして、九条映子がネグリジェ姿でドアを薄く開けた。彼女は天井桟敷の女優で寺山修司と同棲していた。籍が入っていたかどうかは知らない。
 
 私は、自分を天井桟敷に入れないと大変な損失になると言おうと思っていた。写真で見たことのある女優が出てきたので調子が狂った。天井桟敷に入れてください、と言うと、九条映子は、あーら坊や、という感じで、寺山はいないからまた来てね、と言ってドアを閉めた。躁状態の時の決断は早い。ならいいや、と踵を返すとそのまま階段を下りて、マンションを出た。いないのなら仕方ない、と別に後悔めいたことは思わなかった。
 
 それから、3年ほどして1度だけ寺山修司を見たことがある。私が都立大学の学生だった時であった。籍だけは大学生だが、学校にはほとんど行かなかった時期である。たまには顔を出さなくてはまずいか、と王子-田端-渋谷と国電を乗り継いでいくが、どうにも行く気になれずに渋谷で降りて道玄坂の方へ行くのが一つのコースだった。今はなくなったが、テアトルSSという映画館が道玄坂のラブホテル街の真ん中にあった。
 
 その日も中川理絵の出た日活ロマンポルノを見た後、いったん駅の方へ戻って東急文化会館の前の通りを恵比寿方面に向かって歩いていったことがあった。すると道の左側に天井桟敷があったのである。その1階は喫茶店になっていた。私はさっそく中に入った。薄暗いその中に寺山修司がいたのである。かれはシートみたいな椅子に座って原稿を書いていた。
 
 私は1mほど離れた所に座って、コーヒーを頼んだ。彼はテーブルの上に400字詰めの原稿用紙を広げて、鉛筆をがっしり掴み何か書いていた。その手はごつごつしていて農民のような手だった。そうか、寺山修司は鉛筆で原稿を書くんだ、と妙に感心した。もちろん一言も話さなかった。なるべく寺山修司の方は見ないようにしていた。そして30分ほどいて、コーヒーを飲み干すとすぐに外へ出た。
 
 寺山修司青森県出身である。青森県出身といえば、太宰治である。太宰の本名は津島修治という。私と1字違いである。寺山も字こそ違うが、やはりシュウジだ。そんな偶然の一致に大きな意味があるように若いときは思っていた。そして自分がそれらの有名な作家と何か関係があって、自分もそういう風になれるかも知れない、と思った。結果の出た今となっては、偶然は偶然以外の何ものでもない。寺山や太宰が死んだ歳をすぎても私はしがない教師稼業でメシを食っている。
 

(2001 演劇部HP)