私の大学時代(24)

 「先生」と助教授を呼ぶと「さんで呼びなさい」と注意された。一番どんじりの私でさえ、「さん」付けで呼ばれた。だからゴミも各自、自分で捨てるのである。

 私は自分が世の中にとってなんでもない存在だと思い知ったから、ともかく人の役に立つことを自分から進んでするしかなかった。清掃のバイトが長かったのでゴミ集めは自然に思いついた。

 自分のゴミを捨てるときについでに部屋中のゴミ入れからゴミを集めた。大学でも、あの懐かしいゴミ用の台車を使っていたので、それを勝手に持ってきて捨てていた。始めは自分に照れがあり臆する気持ちがあったが、バイトだと思えば何でもない。鼻歌まじりの軽い運動だと思えば良かった。

 上級生を始め先生たちも最初は「いいよ、自分でするから」といった仕草をしていたが、私が何の抵抗もなくやっているので、やがて「ごくろうさま」と言うようになった。

 学生運動の後、バイトばかりしていて成績も思わしくない正体不明の劣等生が意外に便利な雑役係をこなしている、そんな感じで受け入れられた。そのうち助手のKさんから、「ついでに水中生物の飼育室の様子を見てくれ」と頼まれた。

 ゴミ捨て場の脇にあるプレハブ小屋が「水中生物飼育室」であった。中には淡水と海水の水槽があって、浄化器のモーターの音がしていた。イモリとウニが主な飼育生物であった。

 いずれも高校の生物教科書ではおなじみの生き物である。水の様子を見て、エサをやればいい.相手は生物だから、必ず2日に一度くらいは世話しておく必要がある.一人で飼育室にいるのは、自分もいっぱしの研究者になったような気がしてその時間は好きだった。

 そんなことをしているうちに、実験にその生物が必要なときは私が呼ばれるようになった。イモリの採集に山梨県のイモリ沼(勝手にそう呼んでいた)に連れて行ってくれたり、ウニのいる臨海実験所からウニを取ってくる仕事を言い使ったした。
 
 そんな風にして私は研究室に溶け込んでいった。自分から居場所を作っていったのである。もちろん、ただ卒業しさえすればいいという私と生物学を仕事に選んだ人たちと話が合うはずはない。それでも私がいなければある部分その人たちが困ることも確かだった。

 Y教授は慶応志木高校の採用話を持ってきてくれたり、都立小笠原高校の校長に会わせてくれたりした。結局私はここから今に至るまで生物教員をやって生計を立てることになったのである。そのきっかけは、要するに自分から何もしなければ、私は結局何者でもない、という自覚であった。

 ここでも1年落第した。バイトで卒業に必要な単位が取れず、また教職に必要な単位を取るためである。

 この大学時代を書いている時に、インターネットを始めた。そして自伝シリーズと称してメールマガジンにして配信するようになった。また外伝を演劇部員のHPに掲載するようになった。

 クラス通信でなければもう少し触れたいことはある。それは外伝なり、メールマガジン版にするときにつけ加えようと思う。ここまで読んでくれた人には本当に感謝している.大学時代はとりあえずここで終わりとしたい。

 この後は大学時代2に突入するのが自然であるが、浪人時代を書き始めたときと違って惰性で続けていくだけような感じもしている。それは避けたいので、この先どうなるかは、自分でも良くわからない。いずれにせよ、なんらかの形でこのシリーズは死ぬまで続けようと思っている。またどこかでお目にかかることがあるかも知れない。
 01.3.20

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 あとがき:ほぼ1年前に書いたこの号で自伝シリーズは中断している。この後どうなるかわからなかった。読者の方からのメールでまた続けられるような気がしてきた。次号はこのシリーズ始めての読者からの感想・ご要望特集の予定です。(2002.3.16 )