さよならだけが人生だ(1)

 私は都立王子工業高校を昭和42年3月に卒業した。卒業式前後のことを述べておきたい。
 
 卒業式では、答辞を読んだ。それは生徒会長をやっていたからである。なんで生徒会長なぞやっていたかというと目立ちたかったからだろう。立候補者立ち会い演説会の時に800人ばかりの生徒の前に出て話をした。つまらないギャグを言ったら結構受けた。快感であった。
 
 答辞を読むのは卒業生代表である。卒業生代表は生徒会長がやることになっていた。もちろん原稿は自分で書く。担任から過去の答辞を渡されて、それを参考にして文案を練り一度担任に見せることになっていた。
 
 「寒かった冬もようやく終わり、3年間親しんだ学舎の校門の欅の枝もみずみずしく芽吹いています、、、、」というような紋切り型の答辞は字面を追っていくだけでウソっぽいと思った。何か、あっと言われることをやってやろう。そうたくらんだ。当時読んでいた夏目漱石の文章をまねて、候文の原稿を書いた。「ひとたび卒業すれば社会人となりて候故これまでのごとく物事の判断を人に尋ねることあたわず、、、」といったようなものだった。正確には憶えていない。表現が違うだけで内容はありきたりの陳腐なものである。
 
 物理学校(現・理科大)数学を出たという担任は、一読すると「漱石が好きなのか」と言った。そして、2つばかり漢字の間違いを指摘した。私は、こういう型破りな事はやめろ、と言われると思っていた。それまでの答辞にそういう(ふざけた)ものは一つもなかった。ところが担任は「一度、声を出して読んでおくといい」と言っただけで原稿を私に返した。気負い込んでいたのが拍子抜けした。
 
 なんだか気が重くなった。自分が目立とうと思って、変なことやっている馬鹿のような気がした。事実そうなんだが認めたくない。しかし今更引っ込めるわけにもいかない。口に出して読んでみると、慣れていない表現だからうまくいかない。読めない漢字もある。学校に残す答辞にルビを振るわけにもいかない。来賓父兄卒業生在校生、衆目監視の前でこれを読むのか、と思うと、あっと言わせるどころか、バカだねえ、と批評するひそひそ声が聞こえる気がした。
 
 迷った時にはやってしまえ!というのが当時の方針であった。なにを言われてもかまうもんか。結局みんなバカじゃないか。こうなったらとことんやってやる。どうせ卒業式なんてくだらないんだ。形だけじゃないか。そう思うとバカついでにもっとなんかやってやろう、と心に決めた。
 
 答辞は卒業式最後を締めくくるかなめである。その前に祝電披露がある。司会進行は俳句の水原秋櫻子先生を師と仰ぐ古典の教員だった。私はニセの祝電を打つことにした。滝野川の酒屋の店先にある赤電話から祝電を依頼した。当時今太閤と言われた時の総理大臣、田中角栄の名前を使った。電文は祝電の文例をそのまま借用した。田中角栄は若い頃王子の専門学校に在籍している。まったく無関係といえない。局の電報係に疑がわれることもなく依頼は受理された。これがお役所仕事のいいところである。末端の担当は個人判断をしてはいけないのだ。
 
 当日、式は予定通りに進んだ。厳守な雰囲気である。祝電披露の時が来た。私はクラスの席とは離れて、卒業生代表の席で祝電が読まれるかどうか、息をつめて待っていた。司会の俳人教師は少し興奮していた。「田中角栄先生からいただいています」そう前置きして読み上げた。文面は卒業式の挙行を祝い今後の貴校のご発展を祈る、という何の変哲もないものだった。どこにも田中角栄を思わせるものはない。電報を持つ俳人教師の手は少し震えているようだった。明らかに田中角栄から来たものと信じている。
 
 何の関係もない都立の工業高校に総理大臣から電報が来るわけがない。少し考えればすぐわかりそうなものだ。今風に言えば、やったね、と私は内心思った。今なら、国際高校に外務大臣田中真紀子から直々祝電が来るようなものである。「平素えらそうなことを言っていても、この程度なのだ」私は内心そう思った。答辞はそんな白けた気持ちでなんということなく読み終えた。
 
 当時は、教員のくだらない権威主義をあばいた気でいたが、結局私は「その程度」の高校の卒業生である。天に唾するとはこういうことを言うんだとこのごろはそう思っている。 

              
(2001 演劇部HP)