教員時代

ことの顛末(3)

11月に電話1本あっただけで、次の連絡があったのは年末だった。教会に行こう、というのである。カトリックのミッション校に行くのだから信者なら申し分がないだろうが、私にこれといった信仰はない。父母は寺で葬式をしたから仏教であることは間違いない。多…

ことの顛末(2)

1週間、この職場をやめるんだと思いながらすごした。異動の要項がなければ定年までいようと思ったところである。そのため主幹の試験を受験したが不合格だった。ヒラ教員でやっていけ、ということだろう。ところがこの時期、学校運営に関する会議にばかり出さ…

ことの顛末(1)

小笠原の教員時代を書いている途中だがここで臨時ニュースを申し上げます。といった感じになる。この自伝シリーズにあるように、荒川工業高校実習助手から初めて、29年と11ヶ月勤めた東京都公務員におさらばする時が突然やってきた。相変わらず計画性も…

私の教員時代(14)

高校は1学年が8名、2学年が15名、3学年が13名の生徒数計36名、教員は国語2社会2数学1理科2保健体育1英語2家庭科1の12名、これに教頭校長で計14名となる。音楽美術は中学の先生が時間講師に来ていた。単学級校としては必要最小限の布陣…

私の教員時代(13)

離島の朝は早い。父島北緯27度5分。東京より緯度にしてほぼ9度南方になる。初日の出が日本で一番早いのは小笠原である。TV中継などでご覧になった方があるかも知れない。TVの中継は1日だけだが、住んでいる人間にとって1年中朝は早い。 4時を過ぎ…

私の教員時代(12)

前号から6ヶ月経ってしまった。自伝シリーズは1行も書かけなかった。そして、お約束通りにmagmagから、もうやめたらいかがとメールが来た。前回たくらんでいたような「自分のサイトを見てくれるようなお知らせメールマガジン」を、まぐまぐは認めてないこ…

私の教員時代(11)

私が教員の辞令を受けたのは1976年4月1日、27歳の時だった。それから27年、転職も休職もせず毎日毎日職場と自宅の間を往復した。始めの勤務先は離島の僻地、小笠原高校だった。ここに3年間在職して結婚、内地に帰ってきて12年間久留米高校定時…

私の教員時代(10)

私にはよくわからなかった。これが世間で言うところの恋愛というやつなのか。どうも違うような気がする。相手が自分の中に入ってきたり、急に自分がくだらないことをしているように思えたり、そういうことを他の人が言ったり、書いたりしたのをみたことがな…

私の教員時代(9)

出航の31日は新宿で知子と待ち合わせた。新宿御苑の入り口というのが彼女の指定だった。新宿御苑は小学校の遠足以来入ったことがない。私は手ぶらだった。いつも大学へ行くときのようにGパン(ジーンズという言い方は当時していなかったのを思い出す)に…

私の教員時代(8)

さらに1976年の3月の記録を続けることにする。 22日後楽園に行って姉の友人のSさんと話。その後引っ越し用に神田にある姉の会社から段ボールを受け取る。いったん王子福寿荘に戻り大学に行く。現在奈良で高校教諭をしているY氏と共に都立大学の助手…

私の教員時代(7)

1976年の3月の記録を続ける。 14日塾講師最後の日。能力開発センターという小中学生向けの塾である。事務所に行くと、まだ30代の社長が「どうもお世話様でした」と労をねぎらってくれた。私は結構評判が良かった。その後、例の友人Aと銀座の画廊で…

私の教員時代(6)

3月は多忙を極めた。就職先が外国より遠い太平洋上の離島ということから、なんだかもう2度と会えない、という気分になっていた。以下当時の日記から転記する。読者の方にとっては他人の日常些事など退屈かも知れないが、こういう日常の中で私は最後の大学…

私の教員時代(5)

彼女の家を頂点として大学と私が住んでいた王子福寿荘とは2等辺三角形の底辺の反対側にあった。だから新宿駅で左右に別れることになる。そこまで帰る道すがら途切れがちな話をした。 彼女には受験生の弟が一人いた。父親はいない、と彼女は言った。投げ出す…

私の教員時代(4)

事故のように彼女にキスしてから3日後に手紙が来た。「また相談にのってください」と書いてあった。私は酔って女をくどくなんて最低だ、と思っていた。彼女がどう思ったか、すごく気になった。だから手紙が来たとき、一体何が書いてあるか、震える手で封を…

私の教員時代(3)

彼女と初めてキスしたのは、12月の暮れも押し迫った頃だった。年内の授業が終わり、例の学生室で飲み会になった。私と彼女の他に下級生が2、3人いたと思う。 それまでに私は彼女の歓心を買おうとレコードや本を貸したりしていた。そうやって用事を作って…

私の教員時代(2)

香川知子と知り会うようになったのは、彼女が自分の人間関係について、愚痴とも相談とも言える話題を私に持ちかけて来たからである。 私は2年落第しているから、自分と同期の顔見知りは退学あるいは卒業して大学を去った。大学院に進学した者もいるが、皆タ…

私の教員時代(1)

1976(昭和51)年3月31日(水)午後6時、私は竹芝桟橋の父島丸デッキにいた。船はまさに出発しようというところだった。当時はまだ出航前にテープで別れを惜しむことが許可されていた。友人、知人たちが20人ばかり見送りに来ていた。 竹芝桟橋か…