私の大学時代(22)

 3回にわたり1973年の日記を転記してきた。全部載せてコメントをつけたい気もあるが、それをクラス通信の裏面に載せるのは適当でない。その企てはあきらめることにする。

 要するに、私には先のメドがまったく立っていなかった。腰を痛めたので、現場の仕事はやめなければならない、と思いつつなかなかやめられなかった。大学は卒業しよう、と思って授業に出てみたが与えられる課題を仕方なくこなしているだけで、卒業して何になるというあてはない。

 楽しみといえば、バイトの収入でロック関係レコードを買うことぐらいで、それも一人で聞いているだけだった。コンサートなど人混みに出る気はまったくしなかった。

 映画も一人で見に行った。そして一人で帰ってきた。義務のように強迫的に日記をつけた。そして自分ではずいぶん苦しい生活をしている、と思っていた。

 その背景に自分がこういう苦境に陥っているのはどこか不当である、という気持ちがあった。もし経済的な事情に恵まれていればもう少し勉強に時間がさけて大学院ぐらいには行けて、大学の教授にだってなれるかも知れない。

 もう少し自分を正統に扱ってくれてもいいではないか。誰に訴えていいのかいいのかわからないが、そう抗議したい気持ちだった。そっちがその気でいるなら、こっちにも考えがある。もっと不幸になってやる。そんなことを心の底の方でつぶやいていた。

 北風にさらされて1日現場仕事をして、喫茶店に寄って自分の身の回りに起こったことをノートに記録した。そうして福寿荘に帰るのだった。それから眠れぬ寝床でその日記を読み返し、そこに書き込みを入れたりしていた。そんなことをしていたある時、それは突然やってきた。確かに書いたはずの場所が見つからないので、記憶に頼る。

  よろしい、すべて認めよう。大学もつまらない。友人もいない。冷たい風の中、猫背でうろついている。腰を痛めてつらい。親は死んだ。未来に希望もない。よろしい。自分はそういうやつだ。認めよう、そういう自分をすべて認めよう。

 なんだか興奮してそんなことを書いた。そして次に来たのは、そういう自分を外から見るとどうなのか、ということだった。なんだか深刻ぶって不機嫌にしているが、それは自分が勝手にやっているだけで、はた迷惑なばかりである。
 
 正当に評価されていない、などと愚痴っているが、正当に評価されるようなことを自分からしていないのだった。女性コンプレックスがあるとかなんとか思っているようだが、それは他の人に関係ないことがらで、それにつき合わなければならない、ということなどまったくない。こういう風に辛そうにしていれば、女の人は必ず助けてくれる、そうでなければいけない、とでも思い込んでいるようだった。

 要するに私は、自分の思うように他人が反応してくれないのにすねているだけなのだった。こういうヤツは面倒だ、と私自身が思う。それなら、正当に扱われるように自分でやらなければならない、一人でつまらない、と思うなら、友だちを作るようにすればいいのである。それができないのは自分が無力なだけで、他の人には関係ないことである。

 引きこもっている自分の奥にある身勝手で尊大な感情を見た思いだった。嫌な自分はみたくない、と思っていたがとことん認めるとそれは意外にも快感だった。

01.2.7

━━━━━━━━━
 あとがき:お願い。あと2回配信すれば、クラス通信の裏に書き続けてきたこのシリーズのストックはなくなります。4月から担任をはずれることになり、クラス通信からも解放されます。そこでこの先どういうのがいいか、読者の方のご意見を聞かせてください。それを励みにして続けていきたいと思っています。こんなことを考えています。
 1.私の教員時代1(この大学時代のすぐ後、小笠原高校の3年間)
 2.私の大学時代2(東大に通った11年間)
 3.小学・中学時代
 4.外伝(時代を問わず思いつきで・・・)
 せっかくのメールマガジンですから、いただいたご意見はまとめて特集号にして配信しようと思います。それは困るという方はその旨付け加えてください。ぱーこに関する質問もお受けします。(偉そうで申し訳ない。教員やってるとついこいうスタンスがでますね。いかんいかん)よろしくお願いします。(2002.3.2)