寺山修司(1)

 私が高校生の時、寺山修司がメディアに登場した。それは今までの文化人の登場の仕方と違っていた。たとえば東京スポーツの競馬欄に出ている。ギャンブルは神に通じる、なんて記事を書いていたと思う。
 
 変わった歌人・詩人というふれこみ。TVにも出てきた。青森のなまりそのままに、難しい用語を使った。このギャップが面白かった。それまでメディアは「方言」を使う田舎者、というジャンルがあり、地方人の純朴さをからかうのが決めごとであった。口をすぼめて(あれは寒い地方の人の話し方だ)青森弁で「それは、人間の実存に触れるわけです」といった知的な内容を訥々と語る寺山修司はそれだけで異色だった。今でいえば、立松和平で、独特の間となまりで環境問題を語ったりしている。だが、そういうジャンルを確立したのは寺山修司である。
 
 タモリの登場もそのころだった。TVに初めて出てきたタモリ(確か11PM)は水着姿のねえちゃんの立っている脇でいきなりイグアナになって床をはいずり回った。ついでに舌まで出して、ネットリなめ回した。こいつは一体何者だ、と皆思った。タモリの登場については山下洋輔の本に詳しい。博多のホテルで打ち上げをやっていた時に、いきなりドアから見知らぬ男が登場して、、、というタモリ伝説である。
 
 タモリはものまねの世界に新しい方法を導入した。それまで、ものまねというと江戸屋猫八に代表される寄席の色物芸で、猫の鳴き声とかうぐいすの鳴き声とかをまねる、ある種牧歌的な芸だった。つまり声色をまねる。人間の場合も、有名人のいったことをそのまま模倣した。映画スターなどが対象だった。
 
 タモリのイグアナは音ではなく、形態模写だった。それも素材はイグアナである。花鳥諷詠ではない。ネタの素材もそれまで誰も取り上げたことのないものだった。人の場合は、単なるコピーではなく、その人ならこういうことを言うだろう、という創作を含む。初期のタモリ芸で感動したのは四か国麻雀で、中国人朝鮮人フランス人アメリカ人が麻雀をやっているという設定である。イタリア人やロシア人が混ざることもあった。いかにもその国の言葉らしいことを発音しているが、それは デタラメなのだった。年末の徹子の部屋でそれを見て私は興奮した。レコードまで買った。
 
 そのタモリが得意としたのが寺山修司だった。何かわけのわからない難しい事を青森弁で言って最後に、おちょぼ口で、ボクはそう思うワケですよ、と付け加えた。これはずいぶん知的な芸である。対象の本質を的確に把握しそれを批評的に応用する技量がなければ成立しない。その大衆版が初期のとんねるずやうっちゃんなっちゃんだと思う。
 
 ものまねの対象となるには、独特な個性と大衆性が必要である。その内容が一筋縄ではいかなかったので、タモリがそれに適した芸を発達させたともいえる。寺山修司はそういう形でメディアに登場した。


(2001 演劇部HP)