私の大学時代(23)

 ちょうど大学も最終学年になっていた。5年目の4年生である.理学部生物学科では、各研究室に所属することになっている。3年生の終わりに自分が行きたい研究室を希望する。

 2年生の時に概論の講義があり3年生の時に実習があった。実習はほとんど必修だから、3年の時に一通りの分野を習うことになる。これは概論であつかったその分野の基礎的な実験方法を修得すること以外にその研究室になじむ、ということが大きな目的である。

 それぞれ実験はその教室(これは場所のことを示しているのではなくその研究室の構成員を含んだ組織をあらわす用語である)が担当した。たとえば生態学実習だと泊まりがけで八ヶ岳に行った。山小屋に宿泊して、付近の生態調査をする。その時、教授・助教授・助手の教官が参加し、大学院生も手伝いに来ていた。1週間近くも寝食を共にすれば、その教室の様子は大体わかる。

 一通りその実習シリーズが終わる頃には、みな自分の所属する研究室が自然と決まるようにカリキュラムが組んであった。どうする?とお互いに相談する時間も充分ある.学生間で事前に調整が行われるので、ほとんど希望通りになった。

 私は1年落第していて同学年の学生と親しいわけでもなく、ともかく自分が卒業できればいいので、みながどこに希望しているか知らなかった。概論の時見た岩波の学術映画が面白かった。何も勉強していなくても見ればわかるからである。私は16mmの映写技術者の資格を持っていたので、次の講義のときその研究室の助手の人から映写係を頼まれた。それが発生学研究室であった。それでそこを希望した。するとその研究室の主任教授から呼び出しがあった。

 少し学生運動に関わっていたから、そのことを聞かれるかとも思った。生物学科の定員は昼夜(A類B類と言っていた。)合わせて20名程度である。だれがどんな学生なのかは大体わかっているようだった。

 研究室の端にある教授の机の横に座って面接を受けた。「君は1年遅れているが、何をしていたんだ?」Y教授はそう聞いた。「バイトをしていました」私は事実の一部を答えた。嘘は言っていない。Y教授はふんふん、とうなずいた。そういう答えを用意していたのか、という感じである。私が入学してしばらくデモなどに行っていたのを知っているようだった。だがそれ以上は追求してこなかった。「卒業したらどうするつもりですか?」「教員になろうと思います」これもあらかじめ考えていたことだった。また、ふんふん、とうなずいて「まあ、がんばってください」と言って面接は終わりになった。

 3年の終わりに配られた名簿には、希望通り発生学研究室に所属することになっていた。発生学研究室がつかえる部屋は5つあった。生化学の分析をする実験室、構成員の机がある部屋、その隣に付属している談話室、主に顕微鏡を見る実験室、形態をあつかう実験室。廊下には様々な実験器具がおかれていた。

 研究室に所属すると自分の机がもらえた。入り口には名札がかかっていて、帰るときにそれを裏返す。それでだれが来ているかわかるようになっていた。そこで私が始めたことは構成員全員のゴミ集めであった。各自机の脇にゴミ入れがあって、それを自分で捨てるようになっていた。教授、助教授も自分で捨てていた。都立大学は戦後の新制大学である。創立は私の生まれた昭和24年。権力的な東大の風土を嫌った人たちが戦後民主主義(平等)の理念を掲げて創立したという。

2001.3.20

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 あとがき:次期シリーズのアンケートありがとうございます。8名の読者の方からお返事をいただきました。面識のある方が5名、ネットを通じて2年ほどお世話になっている方が1名。2名の方からは始めてお便りいただきました。詳細はいずれまとめるつもりですが、こんな感じです。
 結婚に関して1.演劇部顧問時代1,どれでも2,東大時代1,浪人時代のような感じ1、外伝2,小中時代1、(複数回答含む)いろいろ思いつくこともあって感謝です。ありがとうございました。NO.83ではその特集を組んでみたいと思います。(2002.3.9)