私の浪人時代(1)

 私は昭和42年(1967) に都立王子工業高校電子科を卒業した。都立荒川工業高校電子科実習助手の辞令を受けたのは5月1日であった。翌年3月に退職するまで私は毎日同じ夏物の背広を着て同じネクタイをして王子から南千住まで通勤した。冬はその上にコ-トを着てしのいだが兄のおさがりだったと思う。月給は二万円弱であった。家に半額入金して残りは自分で使えることになった。

  姉が結婚したこともあり八畳一間に7人住んでいた滝野川の間借りを高校2年の7月に引っ越して王子の福寿荘というアパ-トに移っていた。四畳半の部屋を3つ借り、姉2人、兄と母と私、父と居間、と住み分けて使っていた。

  私の部屋は北向きの暗い部屋で母が寝ていた。兄は都立北高卒、埼玉大学教育学部3年生で奨学金をもらってなんとかやりくりしていた。教師になれば奨学金は返さなくていいのである。夏休み前に明治屋のビル掃除のバイトはやめていたから、私はこのアパ-トと職場の間を往復してすごしていた。実習助手で大学受験生、というのが私の立場だった。

  私は工業高校卒に劣等感があり、普通科卒のやつらはもっと完璧に勉強しているから受験ではかなわないと思い込んでいた。定時制普通科なら入れてくれるかもしれない、と教育庁に電話した。担当の職員は「定時制とはいえ、高校卒の学歴をつけるためにあるのだから、君のような高卒の人は受験できない」と言った。勉強の仕方がわからなかった。

 たまたま見た蛍雪時代の広告に「月明下の猛ノック」というあやしい宣伝が載っていた。Z会指導部という名前も秘密結社めいていた。これが通信添削と私の出会いである。通信添削というのは送られて来た問題を解答して返送すると採点されて返ってくる、その繰返しで勉強する、というものである。

 私のように一人で受験勉強する者にあっていると思えた。基礎コ-スというのを取ったが難しかった。自分流に辞書を引き、始めて送った英語の答案は、200点満点の111点であった。私にしては上出来である。ところが席次は6000何人かのうち5900何番かだった。今の偏差値で言えば、30台である。全く太刀打ちできない。

 基礎ができていないからだと思って神田の三省堂に行って、普通科で使う英語の教科書を手当たりしだいに買いあさり、ついでにアンチョコと呼ばれていた指導書も買いまくった。外人が音読しているレコ-ドも買った。幸い勤務先の職員室の本棚に教師用の指導書を見つけたので、英語の先生に言って、譲ってもらった。これは市販のアンチョコよりはるかに優れていた。教え方が書いてある本だから私のような独学者には最適である。これに味を占めて、国語の指導書も手に入れた。とそんな具合に受験関係に月給は消えていった。

 実習助手の仕事としては実験の準備、レポ-トの受取りをすればよかった。ラジオ工作の趣味が生かせてハンダ付けなどは工業の先生に褒められた。3年生は私と同じ18歳であり、書き直しを要求しないので、生徒たちはみな私のところへレポ-トを持って来た。余った時間は工業準備室で受験勉強をしていた。あきると、図書室に行って受験雑誌を読んだ。

 職場では自分からほとんど話をしなかった。実習助手の先輩にナイタ-に行こうと一度誘われたことがあったが、ちょっと、といって断わった。一度断わると、それ以上は誘われなかった。私が受験生であることは言ってあるから、勉強の邪魔をしないよう気を使ってくれたのである。

 私は何かはっきりした目的があって大学へ行きたいというのではなかった。どうしていいかわからないから時間稼ぎに大学へ行く、ということなので、受験雑誌はすみずみまで読んだ。グラビアでは女子学生が陽光を受けて微笑んでいた。「いい」大学に入れば楽しいことがありそうだった。
 
 1994.1
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 あとがき
 続きを頼まれた書いた。指定された字数では不足だった。無理矢理合わせたが、少し不満が残った。それで自分の書きたいように書いて印刷して、最後の授業の時、生徒諸君に配布した。1年間私の授業を聞いてご苦労様でした、というお別れの挨拶のつもりだった。 (2000.9.9)