私の高校時代

 私は昭和三十九年(1964) に都立王子工業高校電子科に入学した。ここを選んだのは、近かったのと家の経済状況と当時自分がラジオ工作などが好きだったからである。   
 父は千葉県から上京して、蔵前工業(現東工大)を卒業して、都の役人をやった後、「はんこばかり押している」生活が嫌になり、三十歳で退職して、自分で鉄工所を経営し、戦後のどさくさで落ちぶれた男である。私が高校の頃は小さい電気会社の用務員のようなことをやっていた。父の学生時代の同窓生には会社の経営者などがいたから、いわば不遇の人である。
 
 私は5人兄弟の末っ子であった。母は私が小学校3年の時から寝たきり老人と化していたから、私は母親から世話された経験を余り持たない。今でも、職場で女性の同僚からお茶など入れてもらうと大変恐縮するのは、そういう育ちだからである。小学生の時から朝食は毎日自分で目玉焼きばかりを作って食べていた。18歳上の長女の姉は就職していたが、とても私が大学へ行く経済的余裕はなかった。
 
 電気工事士の資格を持っていた父の影響もあったのだろう、私は工作少年だった。父の工具を使って、小学校の頃から、ラジオなどを自作していた。中学の時はアマチュア無線の資格も取った。近所のラ-メン屋でバイトして、自分で無線機を作るのが何よりも楽しみだった。そんな訳で、自分の趣味に近い事をやって卒業したら、就職するつもりだった。私立高校を受ける余裕はないから、入学試験に落ちたら、働かなくてならない、と思っていた。そのことを考えると呆然とした。
 
  幸い合格した。高校は歩いて5分とかからない所にあったから始業のベルがなってから駆けつければ間に合った。高校2年の時に引越すまで、皆勤だった。その後卒業まで、一度姉が腹痛を起こし看病して遅刻した事があるだけである。
 
 高校時代は学校が終ると、東京駅まで行き明治製菓のビル掃除のバイトをしていた。5時半から9時までやって、家に帰ると10時近かった。土、日は大掃除をやるから、自分の自由になる時間はほとんどなかった。勉強もしなかった。英語の辞書すら高校時代は持っていなかった。授業中に先生の言う事を聞いて、ノ-トに書き付けておくのである。それで済ましていた。
 
 住いは8畳一間に一家7人が間借りしていた。当然自分の勉強する場所などなかったから、辞書など持っていても使いようがないのである。思い返して見るとせつない。それでも、友人はいたしそれなりに楽しかった。バイトの収入は授業料と無線機に消えて行った。好きなものだったから、工業科目の成績は良かった。卒業したら、電気会社に就職するはずであった。
 
 ところが、高校3年生の時に、自分はこのままでいいのだろうかと思った。自我の目覚めというやつである。今でもはっきり覚えているが、ある日放課後のロッカ-の前で、自分はこんな所で何をやっているんだろう、と思った。一緒に帰る友人はいるが、それも校門を出て、しばらく行くと別れてしまう、そういう付き合いって何だろう、とかいろいろ考えている自分がいた。すると、就職して、職場の人間関係などとても出来やしない、と思った。
 
 大学へ行って、時間稼ぎをしてその間に自信のある自分を作らなくてはいけない、とひそかに思った。進路の話し合いの時、担任はけげんそうだったが、特に反対もしなかった。家では、学費は持つ事はできないが、食べる所と寝るところは世話する、との事だった。それで都立大学埼玉大学を受けたが、当然不合格であった。
 
 卒業して毎日あてどなく新聞の求人欄を見ていると、高校の担任が工業高校の実習助手の仕事を紹介してくれた。それから、大学に入るまで、3年間の暗い浪人時代が始まるのである。
 
 1993.8.1
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 あとがき
 勤務校の保護者会会報に載せるから、と依頼された。ビールを少し飲み、酔った勢いで1時間ほどで書き上げた。会報に載ってみると、続き はどうなっているんだ?と聞かれた。それで、次の冬休みに続編を書いた。( 2000.9.2)