私の浪人時代(2)

  夏休みには長野県の学生村に一か月行って勉強した。これもたまたま見た新聞の記事で受験生に民宿を安く世話する、という企画が出ていたのである。実習助手とはいえさすが都の公務員である、夏休み前にきちんと一時金(ボ-ナス)が出たのでそれを使った。
 
 そこに来ていた都立F高校の*君子という現役の女子高生を好きになった。私は色黒で歯並びが悪く容姿に強い劣等感を抱いていた。写真を撮られるのが嫌だった。猫背で運動神経も鈍く音痴である。自分を好きになる女の子がいるはずがないと思っていた。
 
 そのくせ性欲は一人前にあり、いつも頭の中でいやらしいことばかり考えていた。私にとって若い女の子はひたすらまぶしい存在だった。笑顔を見たりすると甘いやるせなさで胸が一杯になった。そばに寄るといつもいい匂いがするような気がした。そして自分があさましい犬のような性欲に捕らわれていることが恥ずかしかった。そのことが相手に分かったらどうしよう、と激しい不安と強い危惧を抱いていた。だから女の子とつきあったことはなかった。     

 *君子さんにしても、私の友人と彼女の友人と4人でトランプをしたことがあっただけである。学生村を去るとき彼女は信濃追分の駅まで見送りに来てくれた。彼女は「また会いましょう」といって手を振ってくれたのである。それだけのことであった。                  

 そのときの彼女の笑顔が頭から離れなかった。私は彼女に恋焦がれその暮に発作的に何の前ぶれもなくN区の彼女の自宅を訪問した。北風の強い冬の夕方だった。住所は夏の学生村で聞いてあった。あらかじめ地図で調べたあたりに行くと、立派な門構えの家があり表札で彼女の家であるとを確認した。
 

 彼女の父親が出て、応接間に通された。「娘は受験生だからこういうことは止めてほしい。君も勉強に専念しなさい」といなされた。勢い込んで行ったものの私にはなんの抗弁も出来なかった。彼女は応接間の入り口に立って黙って父親と私を見ていた。驚きと不安と迷惑そうな表情をしていた。私はいたたまれなくなった。「失礼しました」と言って立ち上がった。彼女は悲しそうな顔をした。その表情を見てなぜだか分からないが、私は少し慰められた。私に対する憐憫の情もあったと思うが、この事態すべてを悲しんでいるように思えた。
 
 結局彼女とは一言も話せなかった。意気消沈してとぼとぼ帰りながら、身分が違う、と思った。応接間のあることもすごかったが、父親の態度もそれにふさわしく堂々としていた。所詮はノラ犬の恋であった。自分ごときが足を踏み入れるところではなかったのである。
 
 私は自分が躁鬱病だと思っていた。将来に希望がなく、自分は何もできないだめなやつだと思っている、そんな憂鬱な日々が続いたあと、突然自分には何でもできるような気がして、あちこち駆けづりまわる時期が来るのである。
 
 彼女のところへ行ったときもそうであった。この時期は祐天寺にある寺山修司のマンションに行って追い返されたり、鎌倉の小林秀雄の家に行こうとしたが場所が分からず帰ってきたりしていた。そして後で必ず落ち込んで、おのれの馬鹿さ加減を恥じて自分を呪うのだった。
 
 精神科を受診するのはためらわれたので、自分で心理学の本を読んだり薬屋で精神安定剤を買ってこっそり飲んだりしていた。薬はあまりきいたように思えなかったが、自分はこういう薬を飲んでいるやつなんだ、と思うことが悩みでもあり支えでもあった。後に臨床心理学を少し学んだが、私の状態は病気というより、思春期によくある一過性の精神的不安定といったところであろう。
 
 友人は夏に一緒に学生村に行った高校時代の同級生が一人いるだけであった。彼は美術をやりたい、といって浪人していた。中学生のときに父を亡くし成績が下がったので、不本意ながら工業高校に入ってきたのであった。彼は文京区の自宅に自分の部屋があり、予備校に通っていた。私はそういう彼が羨ましかったがそれを口にすることは出来なかった。彼とは出席簿順に作られた実習の班が同じだったので知りあったのである。卒業するまでは話をしたことはほとんどなかった。生活環境が違うので当然である。浪人して、立場が同じになったので付き合うようになったのである。彼も父を亡くしてある鬱屈をかかえていたように思う。
 
 受験勉強の成果はまったくあがらなかった。Z会以外にオリオンと英協という通信添削を受講した。ラジオ講座も聞いた。一人でできることは一通り試した。いきあたりばったりにいいと思われることはやってみたが、闇夜に腕を振り回し駆けずりまわっているようなもので疲れ果てるだけだった。
 
 予備校に通ってきちんと勉強しなければいけないと思い、3月になってから発作的に校長室に行って「やめます」と言った。校長は余り理由も聞かず「後任者のことがあるから少し待ってくれないか」と言ったが、私の意志が固いのでその場で事務に電話して手続きしてくれた。出来た校長である、と今振り返ってみて思う。当時私は自分のことしか考えていなかった。
 
 この年は図書館短期大学学芸大学を受験したがやはり不合格であった。7万円ほど出た退職金は池袋にある英進予備校の入学金になった。ただ一人の友人が通っていたので私もそこにしたのである。無試験だった。東大理系コ-スというのに入ったがもちろん名前だけで、その年の東大合格者は2人だけだったと思う。それでも予備校玄関に掲示されている合格者名簿を眺め合格体験記を読むと、1年先には私でも大学に入れるような気がした。
 
 1994.1
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 あとがき
 こうして、浪人時代の1年間をまとめてみる作業は楽しかった。それは自分一人ですべてのことをとりしきれるからだと思われた。教員の仕事は相手次第なので、自分の努力がそのまま反映されない。同僚との意見調整も面倒である。生徒諸君に配布する意味は、昔はこんなにろくでもなかったか、今では、それなりに仕事を持ってやっている、ということを示すことだったように思う。王子工業高校には3年浪人した教師がいた。その事実だけで、もしかしたら、自分にも世の中でまともな仕事ができるかもしれない、と私自身が勇気づけられたことがあったのである。 ( 2000.9.16)