ことの顛末(2)

 1週間、この職場をやめるんだと思いながらすごした。異動の要項がなければ定年までいようと思ったところである。そのため主幹の試験を受験したが不合格だった。ヒラ教員でやっていけ、ということだろう。ところがこの時期、学校運営に関する会議にばかり出されるようになった。強く断ればよかったが、そこはヒラ教員である。上司の命令には最終的には逆らえない。言う事を聞いておけば,異動の際、得かもしれないという打算もあった。

 授業や部活にあまり時間を割けなくなった。さらに授業案とかのくだらない形式的な書類を書かせる。管理職が全員の教案を見てチェックすることになっていたが、その量から原理的に不可能である。要するにお役所の言うことは聞きなさい、というわけだった。適当に聞き流せば良かったが、私にはできなかった。そんな不満がつのっていた。

 1週間たったが、やめるという思いは消えなかった。それで退職届を出す事にした。妻には相談した。お金が入ればいい、と妻は言った。好きなようにしたら、という感じだった。結婚してすぐに東大を受験する、と言った時と同じである。職場に行く途中の文房具屋で退職届の用紙を買った。履歴書がおいてある棚にあった。たいした形式ではない。氏名・生年月日・理由を書くだけの、簡単なものである。理由は「一身上の都合」にしなさい、と解説に書いてあった。生徒が退学するとき、何遍もそう指導してきた。今度は自分の番だった。

 自分の机でそれを書いた。出したら後戻りはできない。これは私事であろうから、勤務時間外に出さなければならない。そう思って8時前に校長室に行った。これを持って来ました。そう言って退職届けの表書きの封筒を渡した。校長は何の事だかわからない、という表情で中をあらためた。そして「晴天の霹靂です」とどこまで本気にとっていいのか、という感じで言った。私の用事は終わった。失礼します、と小声で言って校長室を出た。校長は一応預かっておきます、と言ったと思う。

 その後で電話がかかってきた。校長室へ来てくれ、とのことだった。校長室では、私の直属の上司である副校長が頭を抱えていた。学校運営に関する会議の指示は彼から出ていた。学校改革をしなくてはならない、それがうまくいくかどうかで管理職は評価される。その結果はまず異動に現れる。どの学校に配属されるか。次に給与だろうが、くわしくは知らない。副校長が頭を抱えているのは、その思惑が外れたからだろう。まさかこの時期に私が退職願いを持って来るとは思っていなかった。部下の動向を把握していないことになる。そういった職制上の事以外に,信頼を裏切られた、といった表情も見えた。こうする前に一言いってほしかったのだろう。その気持ちはわからないでもない。

 私は退学者の多い高校を経験してきたから、100人を超える生徒の退学に立ちあってきた。不登校もそうだが、退学は自分の仕事に価値がない、とつきつけられる気持ちになる。それで動揺するのだ。立場を変えれば、その私の立場に管理職はいることになる。校長は廃校処理を担ってきた強者である。人事上の事ではいい知れぬ経験をしてきたのだろう。職員の退職は想定内のできごととして受け取っているように見えた。副校長にとって、この形の退職は初めてのできごとかもしれない。彼には悪い事をしたかもしれない、そう思った。

 理由を聞かれた。一身上の都合だけではとてもすまない。私はK氏のことを言った。2人とももちろんK氏のことは知っている。それで事情はわかった、と言ってそれ以上追求してこなかった。このことはまだ黙っていてください、と口止めされた。私も時期が来るまで口外しないつもりだった。それ以前に、K氏との話にどこまで現実性があるかわからない。電話1本の口約束である。採用の条件すら聞いていなかった。私にわかっているのは、専任教諭で採用される、ということだけだった。友人との口約束一つで退職する、なんだかカッコいいと思っていたのも事実である。一方で、もし退職してK氏との話が進まなかったらどうするか、ということも考えた。人事は水ものである。K氏にその気はなくても、決まってみるまでどうなるかわからない。不慮の事故でK氏がその立場にいられない、ということまで考えた。それでも私の気持ちはかわらなかった。

 私は毎年、年が明けるとやめたいと思ってきた。いよいよその時期になったのだ。物事には必ず終わりがある。その時期が今来たのだ、そう自分に言い聞かせた。遅いか早いかの違いだ。いくつか気になることはあったが、そのつぶやきで自分をおさめていた。
 2005.12.31

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 この退職に関しては、もう少し面倒な事情もあった。ここでは私の気持ちの問題だけを述べる事にした。この事態から1年たったが、私の思惑の半分は外れた。幸い再就職は滞りなくすんだ。事態はまだ流動的である。それは不治の病がやってきたからである。アメリカでは失明原因の第1位などとぶっそうなことが書いてある。専門医に見てもらったら、治療法はありません、と言われた。今のところ片目だけなので、日常生活に支障はない。これが両目に及べばこの仕事は続けられない。
 それで、あと10年は続けよう、と思っていたが、そうなるかどうかはわからない。私にとっては「晴天の霹靂」であるが、そんなことは世間にいくらでもある。何あたえられたその場でできることをするだけである。このメールマガジンも書けなくなる時がくるまでは続ける、そう思ってまた12月31日になってしまいました。みなさんに良い年が来ますように!